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Contents 3
Basic Desk Front - Information ③ 01-基礎理論 * 02-システム融合 03-実践的課題 04-形成基盤の違い 05-実証的研究の蓄積 06-属音・属和音機能 07-機能理論の限界 08-ネットワーク構築 09-事象の多面性 10-バロック和声と古典派和声 * Postscript ReferenceData
St.Augustine, Confessions Anicius M.T.S. Boethius, De institutione musica Flavius.M.A. Cassiodorus, Institutiones Anonymous, Musica enchiriadis Anonymous, Scholia enchiriadis Bartolome Ramos, Musica practica Heinrich Glarean, Dodecachordon Gioseffe Zarlino, Instituzioni armoniche Thomas Morley, A plain and Easy Introduction to Pratical Music Vincenzo Galilei, Dialogo della musica antica e della moderna J. P. Rameau, Traite de l'harmonie J. J. Rousseau, Lettre sur la musique francaise Edmond Costere, Mort ou Transfigurations de L'harmonie Knud Jeppesen, Counterpoint Paul Henry Lang, Music in Western Civilization Carl Parrish and J.F. Ohl Masterpieces of Music Before 1750 H. M. Miller, History of Music Donald Jay Grout, A History of Western Music Hermann Keller, Das Wohltemperierte Klavier von J.S. Bach Werk und Wiedergabe Peter Bastian, Ind I Musikken Vincent Persichetti, Twentieth Century Harmony Diether de la Motte, Harmonielehre Katharine le Mee, The Origins, Form, Practice, and Healing power of Gregorian Chant Hugh Trevor-Roper, PRINCES AND ARTISTS Patronage and ideology at Four Habsburg Courts Pierre Boulez , penser la musique aujourd'hui Kevin Bazzana , GLENN GOULD The Performer in the Work 検索
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2012年 02月 27日
Desk:02 − システム融合 「 本質的規定 」 ◆ 実践的交渉 芸術家のどのような実践も完全に孤立して存在することはない。創造性は経験で蓄積された現実体験によって育成される。したがって、実践の考察・分析を行わない理論の推奨するものが、本質的に古典的実践に優越する構造認識の地位を享受することはあり得ない。また、規則主義者が主張する概念の内包を明確に与える定義の例外性は対象の多様な見方から生れる、というのも古典の実際と違っている。つまりそれは事実の排除である。そうなれば性急な和声学の基本的認識は何の発展性もなく、教えることは決まっている、として理論講座の改善の理由に規則禁則を繰り返し利用しているだけである。さまざまな見方や意味を見い出す人間の経験という究極の問題を固定化する理論は、新たな検証を過小評価し結果的に芸術作品との対話を放棄する状況を生み出している。さらには、豊かな音楽芸術の問題を一つの誤りという基準を設定するだけで、すべての構造の組織化を片付けようとしている。判断基準_規則違反、例外、不可、許_をもてはやす我が国の風潮も、経験につながらない判断や実証に無関心な論理にこだわる制約に照らし、一方的に正しくないとしたものを手っ取り早く見つけたいという欲求の表れであろう。そうした「正しいか、誤りか、遵守しているか、いないのか」という、唯一・単調化された断片的で一面的な概念が和声学において急激に広まり、歴史上の人間によって展開された実践的存在つまり私たちの現実的な体験から得られる事実について考える場が失われている。 こういった和声学においては、私たちの日常的な現実体験はその排他的な限定・制約の論理によって除外されるか無視される。いうまでもなく、私たちはあからさまに「情報収集の機会」を奪われ、自由な教育の実態である音楽芸術と情熱的に関わることは困難になっている現実がある。和声を学ぶとは規則禁則に準じることであって、概念の認識に対する単調化なのだ。つまり、理論の構成と演習の目標設定はルールが行う。ルールの理論と論理だけが厳格に実行され、実践によって具体的・現実的に統一される人間的能動性よりも規則禁則に重点が置かれる。だが、それは唯一性という点で多数の現象が、あるいは単調化という点で多様な現象が聴こえていない人間のなかに起こる。それだけのことである。音楽の、そして和声の世界は変容と再生をその本質とする。すなわち、その発想と表出は多種のレヴェルにおいて理解されるのである。とはいえ矮小な規則禁則が持ち込まれる和声学は、感覚を決まったやり方でしか必要としない。必要とはされるが、いつも同じやり方でしか必要とされない。しかも、他の多くの表出法を拒絶する思考は、まわり廻って人々がすでに持て余している旧態のグレード制を容赦なく押し進める。なぜなら、「学習者がそうした“神棚にまつり上げられたような認識”と“独我論的な思惟”の中で育つしかないからである」。 ◆ 変容と再生 そもそも西洋19世紀後半の機能理論は、多数の現象の関係と機能とに焦点を合わせ、多様な概念の形成プロセスこそが学術研究の対象となるものである、という認識をもって成り立つ理論であった。この点で、そのプロセスにおける様々な概念化は、対象との実践的交渉、あるいは考察・分析を基盤にして行われ、しかも絶対性への一切の志向をしりぞけ、事実によって証明することをもって最も確実な認識方法とする「実証主義的立場」と深い関係があるといえる。しかし、日本の規則主義者たちはいずれも西洋的形態に顕著な「機能理論の基層的本質(それが写真なら被写体である)」を見過ごしている。実在的存在に対する明証性のないルールを不完全なかたちで受け入れ、あたかも客観的な分析データから得られた概念であるかのように提示し、それを古典和声の構造原理や認識における正誤判断の基準として扱う。少なくとも、理論家が機能理論の本質や役目を知らないわけはないだろう。ひいては概念の形成過程におけるその後の理論展開と論述はどうであろうか? それによれば、そういった機能主義の立場にありながら、理論が音楽芸術が有する現実的で多様な概念を、説明的思惟の役に立たない基準に照らして「正しいのか誤りなのか、あるいはルールを遵守しているのかそれに違反しているのか」という、二者択一的な弁証法の枠の中に閉じ込められるとすれば、理論は機能理論の基本的な諒解の上に立つことはできず、イデオロギー的意図はどうであれ選択肢のない制約へと帰着してしまう。要するに、規則主義的な機能理論とテキストは、複数の現象の間にある対照的な機能を対置させることもなく、しかも合理的経験によって得られる相対的事象の現実性と象徴概念の有効性とを確保することもせず、その一方を、その多くを、美学的にあり得ない不正な表出として切り捨ててしまった。さらには、歴史上の音楽作品において現実的に統一された多様性・変化性にスポットを当てるという点でも、実践的存在である人間への無関心から生じる根本的な弁証法の矛盾に陥っているのである。 では、私たちの事実観察に基づく構造認識の発展において、この機能理論の前提となる旧態のルールが、単純に芸術領域に還元できない問題を引き起こしている点について触れておこう。まず、和声学においてのモデル構築を有効にするには、芸術作品の考察と分析は基礎条件である。しかし必然性のない独断的唯一論が、創造という現実的実践を断片化し、また理論とって都合の悪い歴史的な変化性は排除するという弊害を引き起こした。その弊害が教育現象として広がった結果、和声についての構造性と文化的構造性の自然な補完関係は失われている。この概念がもつ最大の難点は、調に基づく音程や和音の組織化という考えを極端に狭めたとしても、調和声がその用語において意味している限定性をも、すなわち西洋バロックおよび古典派和声様式の構造でさえ定義できなくなってしまう点にある。 ところで、事実によって証明されたルールに関しては、一般的な特定様式を意味するものとして説明されるの が普通である。様式とはその時代の文化特性を代表する形であって、私たちの周囲の対象について象徴的に集約 したものにほかならない。そうであれば、ルールは多数の実践的事実と結びつき、その相互分析が繰り返された 結果として形成されるものである。したがって、特定対象の概念化の焦点は、ルールという限定・制約を正当化 するのための擬似和声における唯一性の概念にとどまるのではなく、それは伝統的な構造概念の変容と再生とい う実践的存在における、しかも“人間の聴覚に備わった普遍的な能力”によってつくりあげられた、本能的パラ フォニアを起源とする「壮大なヴァリエイション」に向けられる必要があるといってよいだろう。芸術家は音に 対してどのように反応していたのか? いつの時代でも、人間は継承された過去の歴史的事実を工夫して使いこ なすという知恵をもっていた。このことは音楽芸術分野においてもなんら変わることはない。 私たちが知りたいのはその洗練された音感覚と発想力、そして実践力である。規則禁則をルールとする規則主義者がモデル化した擬似的対象を体験するのではなくではなく、検証性のある歴史的事実を学ぶということは私たちの将来を考えるということである。むろん、西洋18世紀_バロック・古典派和声様式には、20世紀_印象派音楽の和声様式が芸術になったのと同じ問題が存在する。こういった革新性とその歴史的な経緯を、音楽理論に携わる人間であるなら誰でもよく知っている。 しかし、芸術家が作品において象徴化した実践的事実は、理論的退行にいたってますます問題の焦点ではなくなり、ついには、理論の統合という特権的制度の中に囲い込まれることによって隠ぺい・排除されてしまう。これに対して、現代の理論家は芸術作品の現実全体を踏まえ人間の実践的存在の問題に光を投じ、「新しい理論基盤への移行」を実践的事実に対してよそよそしい理論に対応する構造認識として位置づけようと、古典和声の考察と分析を繰り返し試みている。いつの時代もそうであったが、この現代においては、和声学はもはや旧態理論のような固定化された唯一論に依拠する集合拠点をもつことは難しく、絶えず象徴化における基盤変動にさらされ、理論家は音楽文化というに社会的システムに依拠することなく理論を確定することはできなくなったのである。確かなことは、「可変的で相対的な構造の現実を学びそこなったルール」を無効にするのが理論家であるなら、「和声学はいかにして実践を方向づける力となり得るかという本来的な役割」を再生することができるのも理論家である。 ◆ 規則主義者は何を隠したのか 和声学は、芸術作品を美辞麗句をもって美的に擁護しても、教育と文化に対して今までダメージを与え続けてきた「理論における無謀な規則禁則による枠組と前提条件」、そして「研究における19世紀的機能理論の行き過ぎた理論と論理の矛盾」から段階的に脱却する必要がある。フランスの作曲家で著述家でもある_Ch. ケックランも指摘したように、高度にコントロールもされていない規則禁則の遵守といった構造領域に限定した分析、あるいは特定の様式全般にわたって考察することもなく、禁則の存在を客観的前提とするデカルト主義的な思考規則による分析の方法では、西洋音楽文化の歴史上に登場する古典和声の概念化は不可能となっている。 必然的な根拠もなく個別領域の研究を自己定義に都合のいいように断片化し、そのことによって厳密な法則性を導きだそうとする動向や、ルールに依拠した「モデル的構造性」に和声現象すべての構造を還元しようとする思考と定義が、その性格において理論における象徴化の限界を示していることは明らかである。実を言えば、分析と検証によって事実を示していないにもかかわらず、いまなおそういった限界を正当化し続ける論理こそ、日本的形態の理論構成から生じてくる最も大きな問題の一つなのである。 古典というものは、その国の文化、習慣、歴史が集約されて創造されるものであるから、そこに展開される大 作曲家の和声法が何百年にわたって受け継がれた結果と考えていいだろう。しかし古典和声の構造概念を検証し た分析データや資料が提示できないということは、その理論は現実の古典和声に依拠したものではないことを意 味している。当然ではあるが、その努力なしに諸研究を支援することなどできるはずもない。言ってみれば、西 洋_古典和声の象徴化において概念の内包を明確に与える定義は、事実の実証的研究によるものではなく超越的 思弁による局部的な定義であることを、しかも理論構築にとって必要条件となる構造分析の実施は目指していな いことを理論家自らが認めたことになる。したがって、それは歴史上に名を遺した芸術家たちの和声創出に関わ る実践的事実を示すことができないテキストを、開かれた公的な教育と試験制度に持ち込んだことになるのでは ないだろうか? _現代の和声学は、「旧態のルールを演習でなぞリ返したものなのか?」_ 今まで述べてきたように、概念的方向とその形成過程の筋道からすると、対象はどのような生成過程をたどったのかを考察しておく必要がある。音楽の歴史は人間がつくるのであり、音楽文化における実践的存在の事実を歪曲しようとすると、その教育のためにはマイナスになることが大きい。ひとつの例をあげれば、日本の理論家が理論構築における認識根拠とその過程の説明において、「歴史上に実践された多くの芸術作品から実際に学ぶことは確かに重要である。とはいえ、それに関心がないからといってその理論や演習を全否定する根拠にはならない」という論理は、積極的な知的探究を行う学問でありながら、事実への無関心を正当化しようとする傲慢な姿勢を浮き彫りにしている。仮にも、法則が多数集まって互いに依存しあい矛盾することなく「知識の体系的構造を明らかにする和声学」にしては、ルールに的を絞りただ演習でそれをなぞり返しているだけであまりにも痛々しい。 実証的研究とその理論は、理論の発展に伴い現象の新しい法則を見い出し、この法則としての一般的事実に特定の実践的事実を結びつけることによって、その事実の現実性と有効性とを確保しようとする。しかし、観念的で古い考えの理論家は、危機的状況を問いつめる方向に向かうどころか、むしろ対象との実践的交渉を基盤にして行われる概念の形成過程を、ますます限定・制約的に規則化する方向に向かったのである。そのことは、それを扱う和声学講座までが自己形成の矛盾を指摘されるのを恐れ「和声学は芸術や作曲とは全く関係のない学問である」「概念の検証は音楽学者や専門的個人研究に任せる」という過激な発言をする結果を招いた。そうなるのは、理論の多様化に理論家の成長が追いつかなくなったからである。この理論的質性の批判的な指摘に対して、規則主義者が分析状況の中立レヴェルを妨げ、同じ回答をかたくなにくり返す姿勢はどこまで理解が得られるのか。 もしそうだとすれば、社会の人々が伝統的な芸術作品とその創造者に対して拍手喝采を送っているとしても、優れた芸術的概念の認識と判断をもち得たことを理論家の功績とすることはもはやできない相談となってしまう。ましてや、作曲家を志している学習者にとっては作曲上の戦略について、正確に知ることができるどころの話ではない。音楽評論家も数々の芸術作品に存在する洗練された実践を、歴史上に展開された生気と健全な独創性によるものであると論述しているが、経験的実在から得られる事象の多くを排除する一元的な規則禁則の立場からは、個々の想像力と才能に結びついた独創性の多様をまったく説明することができない。だから、理論家はこの現代においてただ「西洋18世紀音楽を完全に解明した過去の理論を学ぶ」などの綺麗ごとを連呼しているのではなく、それを学ぶ人々が事実と共存できる構造特性の概念形成のためには、理論構築の中で認識者の一人として自分の手を汚す必要も出てくる。かたや和声学講座は、確かな分析と検証を可能にするためには、講座担当者とその受講者がともに芸術作品を「モニターする仕組み」が必要になる。要するに、対象の考察と分析状況の可視化が実現してはじめて、理論は画期的な理論として認められる。 あらゆる情報化が進むいま、まさに私たちは歴史の現場に立っているのである。それゆえに、音楽理論は、対象の考察・分析や対象との実践的交渉から提供される「統一的全体」を確保するために前向きな説明責任が求められているのであり、いつまでも将来的な問題意識をまったく欠いたままではいられない。その意味において、規則主義者が自分のつくり出した理論は音楽芸術を代表する諸作品を考察した結果であると強調するとき、理論内部に作品検証の成果が具体的にあらわれていなければ、その概念規定はまったく意味をなさないという事態を物語っている。つまり、対象の概念規定とは、ルールによって一元化された疑似和声を規定することとして説明されるのではなく、また現実体験から距離をとって関わりをもたない形式主義的な正誤判断をすることでもはなく、それは事実によって証明する認識方法に向けられ、厳密な言説を介して個人的経験の領域を広げ、私たちの日常生活とひと続きである芸術作品に展開された多種多様な概念を受けとめる人の中で完成するものである。 ◆ 知識の体系的構造 すでに述べてきたように、和声学は形骸化した規則禁則に代わり不確実性をも内在させる複数のあり方と、それらが並立する諸構造特性を容認することで理論としての内的構成をより強固にしていくのである。その瞬間たしかに理論は論理的安定性を失ったかのように見えるが、それは現代に生きる私たちに課せられた解決すべき命題となり和声学の理論構築になくてはならない「新しい時代のモデル構成」として浮上する。古来、理論家が和声を論述するには、その論議の出発点となる検証対象を得るために、芸術作品の考察と分析は「必要条件」となったのは自明なことで語るまでもない。中世の理論家「ボエティウス」「カシオドロス」「グラレアーヌス」以来、現代にいたる音楽理論の諸研究は、それにもとづいた明証性をともなう変容と再生の歴史であった。彼等は音楽理論についてこれを合理性と両義性を確保するためのよきパートナーと考えていたのである。その考えによれば、芸術作品の分析は和声学の主要な教程・課程として位置づけられ、音楽理論を中心とする教育にとって欠くことのできない教科となる。また、実際と定義とを分断してそれぞれを領域化するのではなく、歴史および文化的な意味をもって理論形成に加わるものとなる。 多くの西洋人が抱いている疑念がある。それは、「和声を学ぶとき、なぜ文化社会が認める芸術作品の和声に 興味をもたないのか? 日本人には依って立つところがない。理論を確かめる歴史もない。日本の和声学は封印 されていて魅力に欠ける。その前提やルールがどれほど音楽の景観を損ねていることか。たとえどのような反論 があろうとも、和声学をよみがえらせるためには古典を表舞台に引き出すことだ」と彼等は語る。 音楽遺産である古典的規範の認識根拠とその過程を、規則禁則からつくられた特殊的概念_限定進行・禁則_によって消してしまった和声理論の現状が、海外諸国の音楽理論とリンクできない内容で行われている矛盾を外からはっきり印象づけてくれる。彼等が私たちに語ろうとしていることは、J.S.バッハの音楽が和声学のあり方に照らし合わせてどうなのかという議論ではなく、その全方位的な芸術概念そのものが現代社会における音楽文化を通して人間の想像力に寄与しているという事実である。まさにバッハの芸術概念は17世紀以降20世紀を超えて多方面に影響を与えていく可能性を秘めたものであり、バロック的ともいわれる現代の音楽創造の分野にとっても開かれた質の高い指針となる。 とはいえ、人間が享有する自然な和声感覚を2分化し方法論的に一方を排除してしまう前提、また現実体験から得られる概念に対して、直接的な関係性や柔軟な役割構造をもたない観念的な規則あるいは禁則、そして例外区分を隠れみのにした機能理論の立場からは、古典和声の洗練された感覚と優れた技法の説明は不可能なのだ。和声学における機能理論の問題が音楽の認識論全体の一部でしかないのは事実であるが、音楽文化や創造的人間が歴史上に残した実践的事実とその共通感覚が把握できる解決策を見い出す概念化・象徴化なしには、西洋和声音楽を枠組みとした古典和声の認識論の将来を語ることも難しい。この深刻な問題は、理論とその演習をめぐる問題というよりも、いまや基礎理論のモデル構成すなわち実践的課題それ自体が問われはじめ、類としての和声学全体と関わるようになったのである。 和声学における概念とは、歴史的概念である。しかも文化的概念である。とはいえ、現在と過去を未来につなげる構造認識を見失った和声学の行き詰まりは、文化社会にとって重要な教育領域を舞台に、ついにその有効性の問題にまで発展したのである。なぜ理論的矛盾の問題は改善されないのか? 和声学が理論的基軸とする定義概念についてのコペルニクス的転換は遠い昔のことではない、と言ってもけっして言い過ぎではないだろう。これまでの検証と概念の論述で明らかなように、芸術作品には旧態の機能理論が説明していない歴とした和声領域があることは証明されている。それらは西洋古典和声の様式的統一を通じて、優れた音楽性が要求する人間の合理性と自由な発想のモデルとなり、教育や文化活動における基本的基準となるものであり、社会的な関心のもとに開示されるものであって、どんな理由があるとしても例外視扱いされるものではない。なぜなら、人間の真の想像力は歴史や作品の中に生き続けているからである。とすれば、経験的実在すなわち古典の思惟・存在・実践は、和声学における実証的研究のための的確な基礎資料となる。 私たちつまり普通の感覚をもった一般人がおのずと尋ねたくなるのは、和声学において、確実な認識方法である芸術作品と向き合う美的体験が無視され、それに対して無関心で空転する限定・制約だけがなぜ必要とされてきたのか、ということである。実践的事実をどこまで伝えられたかである。それが私たちの思考の概念的方向であり、その美的方向に従うことがまさに事象に対する概念の適用である。しかし、いま私たちが生きている文化社会の現実をラジカルに見据えなければ、和声学の理論構成の論述は空論に終わる。とすれば、和声学がそれは旧態の規則禁則という規格以外の概念を提供しないということには決してならないのである。芸術とのコミュニケーション的行為を求める現代の理論家は「音楽文化にとって芸術作品は例外視できない現実であり、和声学は美的対象も規則主義者たちが自己テーマとした唯一性の概念にだけ求められるものではないと主張し、またルールづくりに対する規則主義者の満足度がどれほど高くても知る機会を奪う合理的な理由にはならないと、そして対象の事実に基づく考察と分析こそが歴史の審判に堪えることができる」と指摘している。 従来の規則禁則で考えられることは限られている。というのも、こういう仮象を対象にした認識基準には実践的事実の検証的ネットワークがないため、その思考と感受は虚しい限定・制約の世界に閉じこもるしか道はなくなるからだ。現に価値ある独創的な構造の現実は、経験的実在の検証を怠ったルールが壁となって事実のままに具現化されることはない。学習者はなぜ学ぶのかという真の目的を忘れ唯一性の概念を覚えること自体を目的にしてしまい、理論を学ぶ目的が何であるかをすっかり忘れてしまう。 たとえば、西洋18世紀_バロック・古典派の作品において和声の基礎概念を分析データが示すように、また 時代をさかのぼればその起源となるオルガヌムのシステム論的考察を出発点にした「理論書/ムシカ・エンキリ アディス」が示すように、生きた創出概念を対象にする事実探究の中に未来のヒントが隠されているのではない だろうか? 和声学が本来目的とする事象の考察意義はこの点にかかっている。「重要なのはどんな影響や感動 をあたえられるのか、そこから事実を学び対象に対する自らの認識の発展を確かめたいと思う人のためかどうか であろう」( 理論書/ムシカ・エンキリアディス )。 現実的に理解可能な現象を証明できない理論になれば、その概念規定は共に形而上学的仮定にいたるが、人間の意志に固有の自由を認めない非人間的なルールの唯一性は論理的自明さと表裏一体の空虚さを伴っている。和声学の将来は完全に予測し得ないという点で、少なくも事象の実際的な認識論は必要不可欠の条件である。私たちの時代は、知識の体系的構造に関わる考察と分析状況の不十分さを指摘する。旧態の理論が前提として掲げる認識基準が、なぜ歴史的な文化において証人となる古典(芸術作品)_事実に対する正確な記憶システム_の一般的な現象を説明できないのか、という普通の議論をしている。したがって、認識上の深刻な空白を埋め尽くそうとするものではない、歴史性を失った限定・制約という事実の還元や再生不能な概念規定においては、その形成過程の再検証が必要なことも分かっている。 要するに、事実に基づく実践的交渉の場に私たち自身が踏み込まなければ、得られない情報は極めて多い。実践的関心を満たすために必要な知的構造体系についてのありふれた情報の不足から、実在する芸術概念にとって規則禁則にこだわるディレンマをかかえてしまった和声学は、一元論の限界によって引き起こされる事実誤認と歪曲の弊害に対して、また、現代的な概念のシステム融合を克服できない排他的な構造認識において、さらには人間が獲得した現実的な創出と調和を意図した実証的研究において、実践的事実に基づく理論と演習に相応しい改革を認識者たちに要請しているのである。そうすることは、近未来に対する備えでもある。 ※このブログはトラックバック承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
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