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Contents 3
Basic Desk Front - Information ③ 01-基礎理論 * 02-システム融合 03-実践的課題 04-形成基盤の違い 05-実証的研究の蓄積 06-属音・属和音機能 07-機能理論の限界 08-ネットワーク構築 09-事象の多面性 10-バロック和声と古典派和声 * Postscript ReferenceData
St.Augustine, Confessions Anicius M.T.S. Boethius, De institutione musica Flavius.M.A. Cassiodorus, Institutiones Anonymous, Musica enchiriadis Anonymous, Scholia enchiriadis Bartolome Ramos, Musica practica Heinrich Glarean, Dodecachordon Gioseffe Zarlino, Instituzioni armoniche Thomas Morley, A plain and Easy Introduction to Pratical Music Vincenzo Galilei, Dialogo della musica antica e della moderna J. P. Rameau, Traite de l'harmonie J. J. Rousseau, Lettre sur la musique francaise Edmond Costere, Mort ou Transfigurations de L'harmonie Knud Jeppesen, Counterpoint Paul Henry Lang, Music in Western Civilization Carl Parrish and J.F. Ohl Masterpieces of Music Before 1750 H. M. Miller, History of Music Donald Jay Grout, A History of Western Music Hermann Keller, Das Wohltemperierte Klavier von J.S. Bach Werk und Wiedergabe Peter Bastian, Ind I Musikken Vincent Persichetti, Twentieth Century Harmony Diether de la Motte, Harmonielehre Katharine le Mee, The Origins, Form, Practice, and Healing power of Gregorian Chant Hugh Trevor-Roper, PRINCES AND ARTISTS Patronage and ideology at Four Habsburg Courts Pierre Boulez , penser la musique aujourd'hui Kevin Bazzana , GLENN GOULD The Performer in the Work 検索
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2012年 02月 27日
2012年 02月 27日
Basic Desk Front - Information ③ 01 - 基礎理論 「 広範な歴史横断の視点 」 _(譜例掲載) ♦ 概念規定 ♦ 理論的進化の方向性 ♦ 禁則は近代理論の破局形態 ♦ 創造性の意味 02 - システム融合 「 本質的規定 」 ♦ 実践的交渉 ♦ 変容と再生 ♦ 規則主義者は何を隠したのか ♦ 知識の体系的構造 03 - 実践的課題 ♦ 歴史的証人 ♦ 感覚の受容性 ♦ 人間を人間にする能力 04 - 形成基盤の違い ♦ 何が科学的なのか? ♦ 見当たらない理由 ♦ 基本的な形成基盤の違い 05 - 実証的研究の蓄積 「 現代認識論の立場 」 ♦ もうすでに21世紀 ♦ 理論的な知識環境 ♦ アプリオリ ♦ 統一性と連続性 06 - 属音・属和音機能 ♦ 現実性と有効性 ♦ 直接的なコンポーネント ♦ 広範な分析と検証 07 - 機能理論の限界 「 新しい音楽観の要請 」 ♦ ひとくくりの暴力 ♦ 近・現代における広義の知識論 ♦ 創造の世界に適合する表出 08 - ネットワーク構築 ♦ 存在意義 ♦ 伝統的構造 09 - 事象の多面性 ♦ 古典的概念規定 ♦ 文化性と社会性の原則 ♦ ドビュッシーが遺した言葉 10 - バロック和声と古典派和声 「 分析領域の拡大と新たな理論 」 _(譜例掲載) ♦ 全方位的なコード・マネジメント ♦ 創造的能力 2012年 02月 27日
![]() ひとつの和声のあり方が禁則であることを証明するのは容易なことではない。しかもひとつの和音進行が規則違反であると規定するのは簡単なことではない。まして、和声のあり方が多数集まって互いに関連し合い矛盾することなく体系的に組織される理論においてはなおさらである。旧態理論の改革や認識方法改善など構造判断に理論的妥当性と論理的一般性が必要な時代だ。可能性の探究、新しい理論と論理の確立という現代的な要請を背景に、歴史および古典に関わる客観的実在性と結びついて、認識根拠とその過程を批判的に問いかけながら基本的基準を見い出し、和声学での目的を守ることが実証的な理論体系への近道である。 歴史とは人間が描かれたものであり、古典とは人間を描いたものであって、人間は超越的存在でも絶対的存在でもなく、可能性を追求していく存在であると認める限り「古典の捉え方」は決まってくる。それが「理論のリアリズム」というものである。現代においては、これを逆手にとった規則主義者が、理論に限らず、私たちがもつ知識の体系的構造を明らかにする論理の欠損をないがしろにして、過った選択のリスクを自覚する倫理、検証の負担を背負う原理の一般性、芸術家と直に触れ合うための公正な知識の分配という和声学の根幹を揺るがしている、と多くの人が受け止めた。私たちが事実の隠蔽・排除の弊害について踏み込んだ判断を積み重ねていたなら、和声学は改善されていたかもしれない。そして、理論の危機的状況を防ぐことができたのではないだろうか。しかし、関連メディアから送られてくる和声学の穏やかな情報の下で多様化やグローバル化が進むなか、日本の文化社会や音楽教育の現場では、現実的に理解可能な経験的世界について述べている概念的方向の矛盾を問いかける認識者はほとんどいなかった。 その規則禁則化の構造は,いうまでもなく基本的な認識基準の領域で無反省に同調圧力をかけ、それによって 和声学は一日一日を生き延びている。古典の事実が限定・制約によって無視されるとき、基礎知識は何の役にも 立たないものとなり、実に嘆かわしいものとなる。しかも規則主義者にその自覚がない。これこそ、実証的研究 が認識の基本的基準としての旧態の規則禁則を批判した理由である。現代の理論家たちも、彼等が理論の科学的 性格と呼ぶものを多かれ少なかれ批判する際に、同じ事態を指摘している。 延命に夢中なっている人間に責任を求めても無理かもしれない。もうそれ自体で論議する力も将来に向けた理 論変革の役割も手にしていない。あるのは形骸化した観念論の自己保存の能力だけである。構造の全体が見えて いるのかいないのか、とぼけたようにいつも手をこまねき座視するのみである。多様で多数の現実的な古典和声 であっても美学的に普遍的なものがあることを認めようとしない。彼等は何度もこの観念論から誘導された公理 定理に言及しているが、そのたびに怯えるようにそれを肯定する曖昧な引用を繰り返し、ことあるごとに、理論 構成には、同一スタイルの、同一概念による唯一化が必要であることを強調している。それは道理にかなった古 典の合理的な実践が、規則禁則の正当性を擁護するために、それには近づいてはいけないと考える否定的基準に されるのを認めてしまうことなのだ。ルール弊害がいまもって野放しになっているのは、いわゆる固定観念への 依存や構造認識の閉鎖性がもたらした結果である。いくら工夫し努力を重ねても、その認識方法と基本的基準を 改めなければ何も変わらない。 ![]() 文化社会に認められた、J.S. バッハ、モーツァルト・ベートーヴェン、シューマンによる和声法の美学的な正当性に反論する必要がないように、私たちは古典の事実検証と芸術的創造性とに矛盾があるとは理解していない。しかも、古典音楽における古典和声の多くが規則違反であるとも思っていない。俗にいう規則違反とは、規則禁則に適合しない和声に対する単なる仮の規定である。その規定は検証によって確かめられたものではなく、私たちが聴いている古典において経験的には妥当性がないとしてあっさり否定されてしまうが、それを規則違反として扱う特殊な理論と演習の範囲内においては、何の不都合もない。しかし、和声学の一般的な知識体系を語るとき、音楽の常識を身につけた人から見れば不自然な概念規定である。事実によって証明するという認識方法を理論の基礎と考える立場で、「例外」「偶成」そして「許される」という主観的な言葉(便法)を軽率に使うとおかしなことになる。これらの用語は実証的な学問としての現代の和声学には用いられない。用語が変わりつつあることが、ここにも見られる。囲いのなかで示される開き直った限定・制約の名残りは、容易に消えるものではないが。 具体的概念規定の定義は、ある場において、生きた人間同士の間に働くものであって、定義を発する側の一観点だけで成り立つものではない。そうしてはじめて実際にあるものとしての規定の重さをもってくるのである。これは、国語教育の領域であろうが、それ以上に根深い概念形成の過程があるのではないだろうか。たとえば、限定進行音は必ずしも限定進行はしない、などという論理に妥当性はあるのか。いまどき和声学で古典を学ぶのは馬鹿げている、とつぶやき、あるいは、バッハ・モーツァルトの音楽を聴いてはならない、とささやき、ベートーヴェンの和声における創造的な芸術概念が例外・不可となるような構造認識は、論議に値するものなのか、どうか。どうせルールは間違っている、目をつぶってしまえ、そのうちみんな忘れる、といって、実証的な理論と論理が、枝葉な認識基準や正誤判断によって混乱させられたりすることがあるのは否定できない。 改善の必要のある認識方法論の問題であって、独創的な表出と考察・分析の目的は必ず矛盾する、と原理のように考えられるものではない。たしかに、どのような分野においても普通のものとは違った教程へ行くに従って、人並みの感覚をもった人間が想像する範囲に拘束を与えることがある。しかし、歴史的・実践的事実を観察することで、付加される想像力の源が、人間的創造性に関わる客観的知識の欠如を埋め合わせることができるというのも真実であろう。いずれにせよ、個人の想像力でさえより広範囲な知識とある種の関連や関係の中で発想するほかはなく、先行した時代から伝統的に継承された共通感覚と、それを享受する一般的な人間の予期された感受という観点から発想するほかはないのである。 古典によって表出された和声とは何か? それはやはり何らかの事実に違いない、その検証もまた象徴的な事実の一つである、とすれば、事実というきわめて常識的な内容から知覚されるような新しい認識基準、規則や禁則以前の多数で多様な構造概念、それによって今までの理論を眺め直す、相対的で両義性をもつ本来的な和声学のあり方について改めて考える必要がある。 2012年 02月 27日
Desk:01 − 基礎理論 「 構成と再構成の循環 」 _(譜例掲載) ◆ 概念規定 和声学には理論展開の概念規定を確認するのための古典という対象が存在する。その分析は本質的に観念論を離れた人間の想像力の世界に委ねられるはずだ。それゆえ概念規定の行われる方向と視点には、古典とは無関係な時代性や従ってもいないルールを言及することができないのは明らかである。古典に関する言及は、真偽が定まっているが、その表現の方法は様々である。「古典は固定観念を解放する」、「固定観念は古典によって解放される」はともに同じ内容をあらわす言及である。「古典」を「考察と分析」に言い換えてみても同じである。このように表現の方法上だけで異なる言及を同じ命題という。というのも、和声学の命題となる概念を明確にする考察・分析の本分は、必然的に一元的な唯一性や排他的な閉鎖性に訴えることではないからである。それは多様な秩序が機能する個々の統一的全体に訴えることなのである。だが、言及能力のない実質的内実を失う概念規定は、歴史・文化の結実として実在する古典の実際、つまり、人間の伝統に対するセンスそのものを考察・分析の対象から除外してしまう遮断壁をもっている。 ルールが描く和声の構造にみえるものが、古典的な意味での正しい和声のあり方なのではなく、実はきめて部分的・断片的な現象に他ならないのではないか、という問いが浮かび上がってくる。この問いだけでも深刻な考察を要することは間違いないが、この問いの延長線上にはさらに重大な問いが待ち受けている。旧態の和声学は、疑似和声を概念化した構造モデルにしたがって古典和声の概念的方向と視点を決定するが、この概念規定に誘導される理論と演習は、対象となった枠組では予測していなかった、あるいは予測できなかった状態を生じさせる。現代において、この予期できなかった結果に対する対応のために、新たな理論モデルの構築が求められているのであり、このようにして和声学はたえず解体・再構成の循環を引き受ける必要がある。とすると、そのルールも対象とする古典の事実から離れその外部に位置をしめる特殊な意識だけでは問題の解決はあり得ないのだ。 これと同じように,理論構成というのもまた実践的事実の方向づけのできる能力が問われ、理論構成がもつこういった環境は想像以上に影響を与えるものなのである。このことからも分かるように、私たちがもつ日常的経験から得ている知識体系を無視し、事実に適合しない特殊な概念を手にすることができるとしても、それが何なのだろう? 規則主義者の描いた唯一性の概念を規則化し忠実になぞった説明と考えれば筋は通るが、そうしたルールが多くのソース・プログラムを奪ってしまう。その結果、和声学が「和声学の理論と演習は、古典の作曲家が実践した和声とは関係がなく、基本的知識を習得することが目的ではない」といってその専門性を放棄していることはすでに見た通りである。それゆえ今でも内輪の論理で和声の説明は続く。こうした理論風土が現状であるなら、和声学は漂流しかねない。理論とその論理も、芸術における歴史的・実践的存在を幾重にも認識しながら信頼回復をしていくしかないであろう。 ◆ 理論的進化の方向性 話を前に戻そう。大切なことを忘れていた。理論モデルの構成でとり分け重要なこと。つまり、理論・演習の前提となる個々の定義が正当であるか否かは、個々の作品考察による分析データを普遍的な事実というに足る「実体概念の本質的規定」によって決まってくる。どのような和声作成に対する質問であれ、歴史的な理論領域、さらに多義的な意匠領域の分析など、そこから抽出される認識規準と聴覚規準を提供する確たる用例をはっきりと示すことが必要となる。それはとても意義深いことなのだ。もし、規則違反や禁則とされている和声を音楽の世界にはないもののように扱うとしたら、発想豊かな人間が「いかに構成し、いかに実践するか?」という内的な自由に踏み込んで、相手のことを考えず自分の方の都合だけで決定した、「古典音楽の和声の正しいあり方」というわざとらしい認識規準になってしまうからである。 日本における旧態の和声学は、規則禁則が描き出す疑似和声の仮の現象にしたがって和声概念への認識基準を決定している。しかし、このような定義概念を規範とする規定は、具体的・現実的な古典を対象とした現象の考察において予測できなかった結果をもたらす。たいていの場合、すべてが予想された現象と違った形で現われる。この予期できない結果に対応するために、また、歴史的芸術作品に表出された美的景観全体を言及するために、新たな理論とモデル構築が要請され、もはや私たちの時代にはそぐわない概念規定の解体、それと同時に、現在を過去および未来につなげる有効な理論の再構成が求められているのである。「終わりに向かう存在」という唯一性の概念において現われる規則化は「禁則・限定・例外・許・偶成」などの語義を、さらには「和声学というものは古典的な意味での正しい和声のあり方がルールとして完成されたものだ」そして「ルールに疑問を感じたらそういうものだと割り切れ」の責任転嫁を野方図に連打する。それは、検証放棄という無関心が生み出した反時代的志向や学問的偏見であり、人間がつくりなす和声の世界を受容できるような、いかなる秩序も永続性もない「近代理論の破局形態」にほかならない。 それは必然的な論証によるのではなく、理不尽な言説による横柄な解説と説得によるものだ。この真実材の否定という実態を確認しただけでも、和声学の理論と演習の方法について重大な転換が要求されていることに気がつくであろう。この一事をもってしても、19世紀的機能理論の概念化による構造の定義が大きく変質したことは否定しがたい。さらに、「歴史的経緯」「事実の検証」「構造の客観的把握」が和声学の理論における出発点であるなら、そうした前提の基礎そのものがすでに揺らいでいるのである。それにしても、和声概念化の前提となる実例が明確に示されないということは学習者を不安に陥れる。そればかりか「芸術作品との対話の機会」をも失う。そういった説明責任を果たそうともしない音楽理論が実行されていることは、もはや学問的例証とはならない非現実的な排他的行為に等しいと批判されるのは当然である。こうした理論と演習の体質は過去のものではない。その点に目を向けてみると、和声学の直面している危機的状況が鮮明にあらわれている。 第1に、和声の研究対象において、大作曲家たちの意に反して規則違反・禁則とされた和声法の多くは、どの時代の音楽作品にも存在しているように表出手段として特別・例外視される概念ではなく、明らかに和声の形成には有用なものであるとするなら、和声学はすでに存在している妥当性のない制約を前提にしながら研究を進めることはできないのである。むしろ「規則禁則をその定義概念とするものについてなぜそのような制約が存在するのか」という問いを立て、先ずこの問いに対してその実例と分析データを指し示しながら説明する必要がある。もしこの問いかけが無意味であるというのであれば、また、この問いに何の説明も得られないのであれば、現代において科学的思想としての和声学という学問は成立しないことになる。 第2に、理論家個人の形式学的論理が描き出す硬直した和声認識方法と諸規準は、実はきわめて恣意的な言葉でカモフラージュされた「事実の隠ぺい」ではないだろうか、という疑問が生じてくる。それだけでも従来の理論に深刻な再考を要することは間違いないが、この問いの延長線上にはさらに大きな命題が待ち受けている。 現代の音楽理論家ブーレーズは「マクロ的実体験の重要性」について次のように述べている。「ア・プリオリに確固として動かない形式的なシステムなど存在しないのであり、結局、音楽的な実体験において新しい図式や新しい構造や新しい命題一般が問題となる場合、あらゆる知的な命題が問題となる場合と同様に、私たちは次の三つの根本的な問いを自らに提出する必要がある。つまり、意味、有効性、有用性に関する問いである。たとえば、或る新しい構造上の手段には何らかの意味作用があるのだろうか、と問う必要がある。もし意味作用があるとすれば、ほとんどつねに、個々の事例に応じて有効性も存在する。最後の実用的な概念については強調する必要はないだろう。いくつもの探究が、しばしば、これらの根本的な問いかけが行われなかったために、無効という結果に終わっている」。彼のこういった指摘は、和声学のオープンである質性と理論進化の方向性に対して示唆に富んだ問題意識を私たちに与えてくれる ( Pierre BOULEZ /penser la musique aujourd'hui _ ピエール・ブーレーズ/現代音楽を考える_ブーレーズの理論的核心/笠羽 映子 訳 )。 このようにして和声学は、芸術作品を対象とした考察は頼りがいがなく、規則禁則の照合によって確実な和声構造の認識が可能となる、という従来の前提にかわって、現実性と有用性は根本的な問いかけによってその認識が可能となる、という立場を志向することが前提になる。旧態の限定や制約というルールをそのような思考によって実証してみるなら、事実の論述に還元可能な和声の一般原理すなわち基本的な理論が明らかになってくる。そうした問いかけが、さしあたり古典の領域に向けられるのは当然であろう。概念の形成過程における様々な見方を満たしていくためには、対象のリストアップおよび分析をどのように進めて行けばよいのかという問題だからである。 とすると、和声学は人間的な表出行為の検証、絶えることのない構成と再構成の循環を引き受け、それが必然的に概念的方向や規定の問題にも拡大されていく。少なくとも基礎理論はその可能性を保証する必要がある。そうなれば、和声学も外部に位置を占める単なる傍観者ではあり得ず、現代における文化社会が自らを維持するための学問の一つとして変化することが可能となるのである。 ◆ 禁則は近代理論の破局形態 和声表出法の教養を深めようとするなら、その構造や文脈を獲得するための案内書が必要となる。すでに述べたように、和声とは本来開かれた概念であり、人間の心のなかにあるものを旋律や和音に表わすという概念的領域が誇りとするのは、創意工夫である。したがって、前衛志向で独創的な和声の性格こそが、一元的な概念規定を論理的に不可能にしているのである。しかも理論家が自分を利するために必要な前提など存在しない。それどころか芸術家の表出行為を観念論でもって限定するような公式規則もないのである。私たちはこれを受けとめ、西洋18世紀音楽のドイツ和声様式は、J.S.バッハ、W.A.モーツァルト、ベートーヴェンの作品において機能している和声であると定義するのであれば、そのすべての表出は「文化的実践である」ということを認めることにほかならない。そもそも音楽文化とは、人間社会における歴史的に、異なった習慣的な機能の集合体であり、その本質はこれらの観点からの個別研究と、対象との実践的交渉を基盤にした取り分け考察を総合することによってはじめて明らかにされるからである。 しかし、西洋音楽文化の象徴的な存在であったバロック・古典派音楽の和声を繰り返し聴いていると、規則禁則に対してつぎのような疑問に突き当たる。 _______________________________________ ? ? 1) 導音、第7音は限定進行音 2) 導音重複は禁則 3) 並進行 (連続)1・5・8度は禁則 * 先行音程と後続音程においてどちらも 完全1度、完全5度、完全8度は禁じられる (後続音程が減5度となる場合は許される) * 並達5度は禁じられる 4) 和音構成音の第3音重複は規則違反 5) Ⅲ, Ⅶ (ローマ数字は音度数を示す)の和音は用いられない 6) 対斜は禁じられる 7) 配分の一致 / 配分移行の制限 * 禁止される配分移行 密集配分 → 開離配分は禁止 開離配分 → 密集配分は禁止 (Oct 配分を経由すれば配分は自由) ? ? _______________________________________ これらは何を解析した認識規準なのか? 3)先行音程と後続音程においてどちらも完全1度、5度、8度は禁じられる、5)Ⅲ, Ⅶ の和音は用いられない、7)配分の一致/配分移行の制限という各ルールは一体どのような古典と向き合った結果なのか? そのルールとなる概念規定は、事象の完全解明とその手段となる科学的思想とはまったく縁遠いものであリ、私たちの日常的経験からすれば非合理の極みである。そうなるのは自己調整能力をもたない寄生的な観念論者が単純にそう思い込んでいるからだ。それらは私たちの関心を惹くものではない。なぜなら、私たちはもっと基礎的な問題、現象に内在しその制約から和声学を基礎付けようという試みすべてに浸透している問題、つまりそのような限定・制約などは現実には存在しないという強い疑念をもっているからである。それだけでなく、歴史と無関係な事象など何処を探しても見当たらないという疑念を抱いている。それらは人間が想像する芸術という概念の中に、普遍的に見い出されるものでも、認識論的に確保されるものでもないし、単なる言いまわしによって、ひとつの決定的な理論を生み出したり正当化できるほど十分なものでもないのである。 3度・6度音程とその連続だけで和声は生まれるのであろうか? 明らかに否である。なぜなら、3度・6度音程とその連続だけでは美しい和声はつくれないからである。では、3度・6度音程に4度音程を付け加えてみたらどうなるのであろうか? たしかに、豊かな響きは得られる。しかし、だからといって前よりましな和声といえるわけではない。なぜなら、3度・4度・6度音程しか使わないような和声はけしてまともな和声とはいえないからである。とすれば、そもそも和声には1度・5度・8度音程とその並進行(連続)も歴然と実在したのである。つまり「和声に美しさを与えるものはあらゆる音程の様々な音現象そのものである」。 私たちはすでに歴史上の芸術家たちが、こういった諸和声法を自分の作品において繰り返し肯定していることを知っている。たとえるなら、それらは文学において名文と言われるような構図を呈するものである。その構造性は西洋音楽の芸術的伝統に実在するものであり、そのなかには形式的織物となった歴史的関係があらかじめ読み込まれ、音響上の美的効果を生み出している。作曲家にとって、その実践はなんら矛盾したものではない。私たちが理論と向き合う状況は、現実的に理解可能な歴史的事実が形成し実践的事実が導いてきたものであり、その状況は、これこそ私たちが理論に解決を期待する基本的基準なのである。 西洋クラシック音楽を鑑賞していると、これらは実際に聴こえてくる現象である。楽譜を調べてみれば、その実体の構造がより一層明らかである。その和声減数を現実的・具体的に構成している事実の説明が不可能となる規則禁則、また、条件づけされた「* 印」の諸構造は名曲にいくらでも存在する。もともと、歴史的な和声の世界においてそれらは禁止などされていなかった。手に負えない不可事項でもなかった。もし、これらの和声法に対して「大作曲家がうっかり見落としたもの」という認識や判断や、それが禁則であると規定した理論と演習が放置されているなら、「それは取り返しのつかないことなのである」(客観的帰結_http://boethius.exblog.jp/i47/)。 どうやら、私たちは事実を還元するために、現実的に理解可能な認識基準を再構成する必要があるらしい。というのも、鏡が対象物を映すように事実を受け入れることは極めて困難なことであるが、歴史上にその名を遺した多くの大作曲家がもつ常識を相手にその思惟・存在・実践と矛盾する絶対的認識と論理は無意味だからである。万人が共有する真理感覚_真偽を識別する能力_を共有した芸術家たちは、速断と偏見を吟味できない規則主義者とは機能的思考の方向性が違うのだ。 実際、西洋音楽の歴史的な古典の世界において、導音の自由な進行、和音構成音_第3音重複、声部間_並進行(連続)1・5・8 度、旋律的な減・増音程進行、対斜、密集と開離による多面的な配分移行を実践していく大作曲家のキャスティングは実にすばらしい。 ◆ 創造性の意味 実存する多くの技法でいっぱいの表現のなかで、意識の低い限定的ルール感覚が知的な象徴機能であったためしはいまだかつてない。それは研究にとって説明的思惟に役に立つような専門的知識でもない。学習者は、自分に快を与えてくれる和声を軽蔑するように誘導され、そうした現象が与える快を恥じるように仕向けられる。それが理解できなければ、自分が属しているコミュニティだけでなく自分自身をも分断する。人間が想像した芸術を擁護すると言いながら、一方でこのような認識方法を普遍的なものとして固定する概念規定は、まるで「規則禁則は音楽よりも先につくられた」と言っているようなものである。音楽理論の専門家なら、隠された事実に関心をもったとき古典音楽の楽譜を参照することができるのだが、欧米では、大学の外にいる知識人のみならず、専門家でない学生や青年も、和声学に関心のある者であれば、事実をめぐる専門的論争や、古典和声とその理論についての明証性を詳細に論じあうことができた。安易に作られたテキストのルールを恐れることはなかったのだ。 いくつかの例を考察してみよう。 ![]() ( 概念の定義については、「大作曲家11人の和声法 上巻/下巻」から引用 ) 例 1. ![]() 例 2. ![]() 例 3. ![]() 例 4. ![]() 例 5. ![]() 例 6. ![]() 例 7. ![]() 例 8. ![]() 例 9. ![]() ![]() 例 10. ![]() 例 11. ![]() 例 12. ![]() 例 13. ![]() 例 14. ![]() 例 15. ![]() 例 16. ![]() 多くの和声現象は一見して単純明快に映る。しかしそれが含む意味性は多義的である。多義的解釈を許すのである。だから、それを知らずにいると無知をさらけだすことになる。上記_「例1.〜13. 」の和声はなぜ不自然な響きになるのか? 和声学の試験ではどのような理由があって例外という烙印を押され間違いとされるのか? いずれにしても、冒頭に挙げた「 ??1) 〜7)?? の認識基準 」は、多様な発想からなる構造全体を見失ってしまった「がらくた」にすぎない。聴覚に備わった普遍的な能力_聴く力のある人間にとっては空理空論である。なぜなら、人間の実践的存在を証明する芸術作品に展開された創造性の意味や価値を認めようとしないからである。たとえば「J.S. バッハ_コラール」「ベートーヴェン_交響曲−第9番、ピアノ・ソナタ−月光の曲、永年の創作史を象徴するかのような、しかも、和声技法において結論的な集約性をもっている作品109」など、そういう名曲の和声構造特性を、学習規則を掲げて違反とする定義概念には妥当性がないからだ。音楽を譜面上の音符に向けた視覚だけで、あるいは片方の能力だけで聴くような排他的独断に対して、日常的に豊かな音楽体験をしている文化人は誰もが頷いたりはしないだろう。取り立てていうまでもなく、それは音楽作品にゆだねられた和声のみが解決できる問題なのである。 2012年 02月 27日
Desk:02 − システム融合 「 本質的規定 」 ◆ 実践的交渉 芸術家のどのような実践も完全に孤立して存在することはない。創造性は経験で蓄積された現実体験によって育成される。したがって、実践の考察・分析を行わない理論の推奨するものが、本質的に古典的実践に優越する構造認識の地位を享受することはあり得ない。また、規則主義者が主張する概念の内包を明確に与える定義の例外性は対象の多様な見方から生れる、というのも古典の実際と違っている。つまりそれは事実の排除である。そうなれば性急な和声学の基本的認識は何の発展性もなく、教えることは決まっている、として理論講座の改善の理由に規則禁則を繰り返し利用しているだけである。さまざまな見方や意味を見い出す人間の経験という究極の問題を固定化する理論は、新たな検証を過小評価し結果的に芸術作品との対話を放棄する状況を生み出している。さらには、豊かな音楽芸術の問題を一つの誤りという基準を設定するだけで、すべての構造の組織化を片付けようとしている。判断基準_規則違反、例外、不可、許_をもてはやす我が国の風潮も、経験につながらない判断や実証に無関心な論理にこだわる制約に照らし、一方的に正しくないとしたものを手っ取り早く見つけたいという欲求の表れであろう。そうした「正しいか、誤りか、遵守しているか、いないのか」という、唯一・単調化された断片的で一面的な概念が和声学において急激に広まり、歴史上の人間によって展開された実践的存在つまり私たちの現実的な体験から得られる事実について考える場が失われている。 こういった和声学においては、私たちの日常的な現実体験はその排他的な限定・制約の論理によって除外されるか無視される。いうまでもなく、私たちはあからさまに「情報収集の機会」を奪われ、自由な教育の実態である音楽芸術と情熱的に関わることは困難になっている現実がある。和声を学ぶとは規則禁則に準じることであって、概念の認識に対する単調化なのだ。つまり、理論の構成と演習の目標設定はルールが行う。ルールの理論と論理だけが厳格に実行され、実践によって具体的・現実的に統一される人間的能動性よりも規則禁則に重点が置かれる。だが、それは唯一性という点で多数の現象が、あるいは単調化という点で多様な現象が聴こえていない人間のなかに起こる。それだけのことである。音楽の、そして和声の世界は変容と再生をその本質とする。すなわち、その発想と表出は多種のレヴェルにおいて理解されるのである。とはいえ矮小な規則禁則が持ち込まれる和声学は、感覚を決まったやり方でしか必要としない。必要とはされるが、いつも同じやり方でしか必要とされない。しかも、他の多くの表出法を拒絶する思考は、まわり廻って人々がすでに持て余している旧態のグレード制を容赦なく押し進める。なぜなら、「学習者がそうした“神棚にまつり上げられたような認識”と“独我論的な思惟”の中で育つしかないからである」。 ◆ 変容と再生 そもそも西洋19世紀後半の機能理論は、多数の現象の関係と機能とに焦点を合わせ、多様な概念の形成プロセスこそが学術研究の対象となるものである、という認識をもって成り立つ理論であった。この点で、そのプロセスにおける様々な概念化は、対象との実践的交渉、あるいは考察・分析を基盤にして行われ、しかも絶対性への一切の志向をしりぞけ、事実によって証明することをもって最も確実な認識方法とする「実証主義的立場」と深い関係があるといえる。しかし、日本の規則主義者たちはいずれも西洋的形態に顕著な「機能理論の基層的本質(それが写真なら被写体である)」を見過ごしている。実在的存在に対する明証性のないルールを不完全なかたちで受け入れ、あたかも客観的な分析データから得られた概念であるかのように提示し、それを古典和声の構造原理や認識における正誤判断の基準として扱う。少なくとも、理論家が機能理論の本質や役目を知らないわけはないだろう。ひいては概念の形成過程におけるその後の理論展開と論述はどうであろうか? それによれば、そういった機能主義の立場にありながら、理論が音楽芸術が有する現実的で多様な概念を、説明的思惟の役に立たない基準に照らして「正しいのか誤りなのか、あるいはルールを遵守しているのかそれに違反しているのか」という、二者択一的な弁証法の枠の中に閉じ込められるとすれば、理論は機能理論の基本的な諒解の上に立つことはできず、イデオロギー的意図はどうであれ選択肢のない制約へと帰着してしまう。要するに、規則主義的な機能理論とテキストは、複数の現象の間にある対照的な機能を対置させることもなく、しかも合理的経験によって得られる相対的事象の現実性と象徴概念の有効性とを確保することもせず、その一方を、その多くを、美学的にあり得ない不正な表出として切り捨ててしまった。さらには、歴史上の音楽作品において現実的に統一された多様性・変化性にスポットを当てるという点でも、実践的存在である人間への無関心から生じる根本的な弁証法の矛盾に陥っているのである。 では、私たちの事実観察に基づく構造認識の発展において、この機能理論の前提となる旧態のルールが、単純に芸術領域に還元できない問題を引き起こしている点について触れておこう。まず、和声学においてのモデル構築を有効にするには、芸術作品の考察と分析は基礎条件である。しかし必然性のない独断的唯一論が、創造という現実的実践を断片化し、また理論とって都合の悪い歴史的な変化性は排除するという弊害を引き起こした。その弊害が教育現象として広がった結果、和声についての構造性と文化的構造性の自然な補完関係は失われている。この概念がもつ最大の難点は、調に基づく音程や和音の組織化という考えを極端に狭めたとしても、調和声がその用語において意味している限定性をも、すなわち西洋バロックおよび古典派和声様式の構造でさえ定義できなくなってしまう点にある。 ところで、事実によって証明されたルールに関しては、一般的な特定様式を意味するものとして説明されるの が普通である。様式とはその時代の文化特性を代表する形であって、私たちの周囲の対象について象徴的に集約 したものにほかならない。そうであれば、ルールは多数の実践的事実と結びつき、その相互分析が繰り返された 結果として形成されるものである。したがって、特定対象の概念化の焦点は、ルールという限定・制約を正当化 するのための擬似和声における唯一性の概念にとどまるのではなく、それは伝統的な構造概念の変容と再生とい う実践的存在における、しかも“人間の聴覚に備わった普遍的な能力”によってつくりあげられた、本能的パラ フォニアを起源とする「壮大なヴァリエイション」に向けられる必要があるといってよいだろう。芸術家は音に 対してどのように反応していたのか? いつの時代でも、人間は継承された過去の歴史的事実を工夫して使いこ なすという知恵をもっていた。このことは音楽芸術分野においてもなんら変わることはない。 私たちが知りたいのはその洗練された音感覚と発想力、そして実践力である。規則禁則をルールとする規則主義者がモデル化した擬似的対象を体験するのではなくではなく、検証性のある歴史的事実を学ぶということは私たちの将来を考えるということである。むろん、西洋18世紀_バロック・古典派和声様式には、20世紀_印象派音楽の和声様式が芸術になったのと同じ問題が存在する。こういった革新性とその歴史的な経緯を、音楽理論に携わる人間であるなら誰でもよく知っている。 しかし、芸術家が作品において象徴化した実践的事実は、理論的退行にいたってますます問題の焦点ではなくなり、ついには、理論の統合という特権的制度の中に囲い込まれることによって隠ぺい・排除されてしまう。これに対して、現代の理論家は芸術作品の現実全体を踏まえ人間の実践的存在の問題に光を投じ、「新しい理論基盤への移行」を実践的事実に対してよそよそしい理論に対応する構造認識として位置づけようと、古典和声の考察と分析を繰り返し試みている。いつの時代もそうであったが、この現代においては、和声学はもはや旧態理論のような固定化された唯一論に依拠する集合拠点をもつことは難しく、絶えず象徴化における基盤変動にさらされ、理論家は音楽文化というに社会的システムに依拠することなく理論を確定することはできなくなったのである。確かなことは、「可変的で相対的な構造の現実を学びそこなったルール」を無効にするのが理論家であるなら、「和声学はいかにして実践を方向づける力となり得るかという本来的な役割」を再生することができるのも理論家である。 ◆ 規則主義者は何を隠したのか 和声学は、芸術作品を美辞麗句をもって美的に擁護しても、教育と文化に対して今までダメージを与え続けてきた「理論における無謀な規則禁則による枠組と前提条件」、そして「研究における19世紀的機能理論の行き過ぎた理論と論理の矛盾」から段階的に脱却する必要がある。フランスの作曲家で著述家でもある_Ch. ケックランも指摘したように、高度にコントロールもされていない規則禁則の遵守といった構造領域に限定した分析、あるいは特定の様式全般にわたって考察することもなく、禁則の存在を客観的前提とするデカルト主義的な思考規則による分析の方法では、西洋音楽文化の歴史上に登場する古典和声の概念化は不可能となっている。 必然的な根拠もなく個別領域の研究を自己定義に都合のいいように断片化し、そのことによって厳密な法則性を導きだそうとする動向や、ルールに依拠した「モデル的構造性」に和声現象すべての構造を還元しようとする思考と定義が、その性格において理論における象徴化の限界を示していることは明らかである。実を言えば、分析と検証によって事実を示していないにもかかわらず、いまなおそういった限界を正当化し続ける論理こそ、日本的形態の理論構成から生じてくる最も大きな問題の一つなのである。 古典というものは、その国の文化、習慣、歴史が集約されて創造されるものであるから、そこに展開される大 作曲家の和声法が何百年にわたって受け継がれた結果と考えていいだろう。しかし古典和声の構造概念を検証し た分析データや資料が提示できないということは、その理論は現実の古典和声に依拠したものではないことを意 味している。当然ではあるが、その努力なしに諸研究を支援することなどできるはずもない。言ってみれば、西 洋_古典和声の象徴化において概念の内包を明確に与える定義は、事実の実証的研究によるものではなく超越的 思弁による局部的な定義であることを、しかも理論構築にとって必要条件となる構造分析の実施は目指していな いことを理論家自らが認めたことになる。したがって、それは歴史上に名を遺した芸術家たちの和声創出に関わ る実践的事実を示すことができないテキストを、開かれた公的な教育と試験制度に持ち込んだことになるのでは ないだろうか? _現代の和声学は、「旧態のルールを演習でなぞリ返したものなのか?」_ 今まで述べてきたように、概念的方向とその形成過程の筋道からすると、対象はどのような生成過程をたどったのかを考察しておく必要がある。音楽の歴史は人間がつくるのであり、音楽文化における実践的存在の事実を歪曲しようとすると、その教育のためにはマイナスになることが大きい。ひとつの例をあげれば、日本の理論家が理論構築における認識根拠とその過程の説明において、「歴史上に実践された多くの芸術作品から実際に学ぶことは確かに重要である。とはいえ、それに関心がないからといってその理論や演習を全否定する根拠にはならない」という論理は、積極的な知的探究を行う学問でありながら、事実への無関心を正当化しようとする傲慢な姿勢を浮き彫りにしている。仮にも、法則が多数集まって互いに依存しあい矛盾することなく「知識の体系的構造を明らかにする和声学」にしては、ルールに的を絞りただ演習でそれをなぞり返しているだけであまりにも痛々しい。 実証的研究とその理論は、理論の発展に伴い現象の新しい法則を見い出し、この法則としての一般的事実に特定の実践的事実を結びつけることによって、その事実の現実性と有効性とを確保しようとする。しかし、観念的で古い考えの理論家は、危機的状況を問いつめる方向に向かうどころか、むしろ対象との実践的交渉を基盤にして行われる概念の形成過程を、ますます限定・制約的に規則化する方向に向かったのである。そのことは、それを扱う和声学講座までが自己形成の矛盾を指摘されるのを恐れ「和声学は芸術や作曲とは全く関係のない学問である」「概念の検証は音楽学者や専門的個人研究に任せる」という過激な発言をする結果を招いた。そうなるのは、理論の多様化に理論家の成長が追いつかなくなったからである。この理論的質性の批判的な指摘に対して、規則主義者が分析状況の中立レヴェルを妨げ、同じ回答をかたくなにくり返す姿勢はどこまで理解が得られるのか。 もしそうだとすれば、社会の人々が伝統的な芸術作品とその創造者に対して拍手喝采を送っているとしても、優れた芸術的概念の認識と判断をもち得たことを理論家の功績とすることはもはやできない相談となってしまう。ましてや、作曲家を志している学習者にとっては作曲上の戦略について、正確に知ることができるどころの話ではない。音楽評論家も数々の芸術作品に存在する洗練された実践を、歴史上に展開された生気と健全な独創性によるものであると論述しているが、経験的実在から得られる事象の多くを排除する一元的な規則禁則の立場からは、個々の想像力と才能に結びついた独創性の多様をまったく説明することができない。だから、理論家はこの現代においてただ「西洋18世紀音楽を完全に解明した過去の理論を学ぶ」などの綺麗ごとを連呼しているのではなく、それを学ぶ人々が事実と共存できる構造特性の概念形成のためには、理論構築の中で認識者の一人として自分の手を汚す必要も出てくる。かたや和声学講座は、確かな分析と検証を可能にするためには、講座担当者とその受講者がともに芸術作品を「モニターする仕組み」が必要になる。要するに、対象の考察と分析状況の可視化が実現してはじめて、理論は画期的な理論として認められる。 あらゆる情報化が進むいま、まさに私たちは歴史の現場に立っているのである。それゆえに、音楽理論は、対象の考察・分析や対象との実践的交渉から提供される「統一的全体」を確保するために前向きな説明責任が求められているのであり、いつまでも将来的な問題意識をまったく欠いたままではいられない。その意味において、規則主義者が自分のつくり出した理論は音楽芸術を代表する諸作品を考察した結果であると強調するとき、理論内部に作品検証の成果が具体的にあらわれていなければ、その概念規定はまったく意味をなさないという事態を物語っている。つまり、対象の概念規定とは、ルールによって一元化された疑似和声を規定することとして説明されるのではなく、また現実体験から距離をとって関わりをもたない形式主義的な正誤判断をすることでもはなく、それは事実によって証明する認識方法に向けられ、厳密な言説を介して個人的経験の領域を広げ、私たちの日常生活とひと続きである芸術作品に展開された多種多様な概念を受けとめる人の中で完成するものである。 ◆ 知識の体系的構造 すでに述べてきたように、和声学は形骸化した規則禁則に代わり不確実性をも内在させる複数のあり方と、それらが並立する諸構造特性を容認することで理論としての内的構成をより強固にしていくのである。その瞬間たしかに理論は論理的安定性を失ったかのように見えるが、それは現代に生きる私たちに課せられた解決すべき命題となり和声学の理論構築になくてはならない「新しい時代のモデル構成」として浮上する。古来、理論家が和声を論述するには、その論議の出発点となる検証対象を得るために、芸術作品の考察と分析は「必要条件」となったのは自明なことで語るまでもない。中世の理論家「ボエティウス」「カシオドロス」「グラレアーヌス」以来、現代にいたる音楽理論の諸研究は、それにもとづいた明証性をともなう変容と再生の歴史であった。彼等は音楽理論についてこれを合理性と両義性を確保するためのよきパートナーと考えていたのである。その考えによれば、芸術作品の分析は和声学の主要な教程・課程として位置づけられ、音楽理論を中心とする教育にとって欠くことのできない教科となる。また、実際と定義とを分断してそれぞれを領域化するのではなく、歴史および文化的な意味をもって理論形成に加わるものとなる。 多くの西洋人が抱いている疑念がある。それは、「和声を学ぶとき、なぜ文化社会が認める芸術作品の和声に 興味をもたないのか? 日本人には依って立つところがない。理論を確かめる歴史もない。日本の和声学は封印 されていて魅力に欠ける。その前提やルールがどれほど音楽の景観を損ねていることか。たとえどのような反論 があろうとも、和声学をよみがえらせるためには古典を表舞台に引き出すことだ」と彼等は語る。 音楽遺産である古典的規範の認識根拠とその過程を、規則禁則からつくられた特殊的概念_限定進行・禁則_によって消してしまった和声理論の現状が、海外諸国の音楽理論とリンクできない内容で行われている矛盾を外からはっきり印象づけてくれる。彼等が私たちに語ろうとしていることは、J.S.バッハの音楽が和声学のあり方に照らし合わせてどうなのかという議論ではなく、その全方位的な芸術概念そのものが現代社会における音楽文化を通して人間の想像力に寄与しているという事実である。まさにバッハの芸術概念は17世紀以降20世紀を超えて多方面に影響を与えていく可能性を秘めたものであり、バロック的ともいわれる現代の音楽創造の分野にとっても開かれた質の高い指針となる。 とはいえ、人間が享有する自然な和声感覚を2分化し方法論的に一方を排除してしまう前提、また現実体験から得られる概念に対して、直接的な関係性や柔軟な役割構造をもたない観念的な規則あるいは禁則、そして例外区分を隠れみのにした機能理論の立場からは、古典和声の洗練された感覚と優れた技法の説明は不可能なのだ。和声学における機能理論の問題が音楽の認識論全体の一部でしかないのは事実であるが、音楽文化や創造的人間が歴史上に残した実践的事実とその共通感覚が把握できる解決策を見い出す概念化・象徴化なしには、西洋和声音楽を枠組みとした古典和声の認識論の将来を語ることも難しい。この深刻な問題は、理論とその演習をめぐる問題というよりも、いまや基礎理論のモデル構成すなわち実践的課題それ自体が問われはじめ、類としての和声学全体と関わるようになったのである。 和声学における概念とは、歴史的概念である。しかも文化的概念である。とはいえ、現在と過去を未来につなげる構造認識を見失った和声学の行き詰まりは、文化社会にとって重要な教育領域を舞台に、ついにその有効性の問題にまで発展したのである。なぜ理論的矛盾の問題は改善されないのか? 和声学が理論的基軸とする定義概念についてのコペルニクス的転換は遠い昔のことではない、と言ってもけっして言い過ぎではないだろう。これまでの検証と概念の論述で明らかなように、芸術作品には旧態の機能理論が説明していない歴とした和声領域があることは証明されている。それらは西洋古典和声の様式的統一を通じて、優れた音楽性が要求する人間の合理性と自由な発想のモデルとなり、教育や文化活動における基本的基準となるものであり、社会的な関心のもとに開示されるものであって、どんな理由があるとしても例外視扱いされるものではない。なぜなら、人間の真の想像力は歴史や作品の中に生き続けているからである。とすれば、経験的実在すなわち古典の思惟・存在・実践は、和声学における実証的研究のための的確な基礎資料となる。 私たちつまり普通の感覚をもった一般人がおのずと尋ねたくなるのは、和声学において、確実な認識方法である芸術作品と向き合う美的体験が無視され、それに対して無関心で空転する限定・制約だけがなぜ必要とされてきたのか、ということである。実践的事実をどこまで伝えられたかである。それが私たちの思考の概念的方向であり、その美的方向に従うことがまさに事象に対する概念の適用である。しかし、いま私たちが生きている文化社会の現実をラジカルに見据えなければ、和声学の理論構成の論述は空論に終わる。とすれば、和声学がそれは旧態の規則禁則という規格以外の概念を提供しないということには決してならないのである。芸術とのコミュニケーション的行為を求める現代の理論家は「音楽文化にとって芸術作品は例外視できない現実であり、和声学は美的対象も規則主義者たちが自己テーマとした唯一性の概念にだけ求められるものではないと主張し、またルールづくりに対する規則主義者の満足度がどれほど高くても知る機会を奪う合理的な理由にはならないと、そして対象の事実に基づく考察と分析こそが歴史の審判に堪えることができる」と指摘している。 従来の規則禁則で考えられることは限られている。というのも、こういう仮象を対象にした認識基準には実践的事実の検証的ネットワークがないため、その思考と感受は虚しい限定・制約の世界に閉じこもるしか道はなくなるからだ。現に価値ある独創的な構造の現実は、経験的実在の検証を怠ったルールが壁となって事実のままに具現化されることはない。学習者はなぜ学ぶのかという真の目的を忘れ唯一性の概念を覚えること自体を目的にしてしまい、理論を学ぶ目的が何であるかをすっかり忘れてしまう。 たとえば、西洋18世紀_バロック・古典派の作品において和声の基礎概念を分析データが示すように、また 時代をさかのぼればその起源となるオルガヌムのシステム論的考察を出発点にした「理論書/ムシカ・エンキリ アディス」が示すように、生きた創出概念を対象にする事実探究の中に未来のヒントが隠されているのではない だろうか? 和声学が本来目的とする事象の考察意義はこの点にかかっている。「重要なのはどんな影響や感動 をあたえられるのか、そこから事実を学び対象に対する自らの認識の発展を確かめたいと思う人のためかどうか であろう」( 理論書/ムシカ・エンキリアディス )。 現実的に理解可能な現象を証明できない理論になれば、その概念規定は共に形而上学的仮定にいたるが、人間の意志に固有の自由を認めない非人間的なルールの唯一性は論理的自明さと表裏一体の空虚さを伴っている。和声学の将来は完全に予測し得ないという点で、少なくも事象の実際的な認識論は必要不可欠の条件である。私たちの時代は、知識の体系的構造に関わる考察と分析状況の不十分さを指摘する。旧態の理論が前提として掲げる認識基準が、なぜ歴史的な文化において証人となる古典(芸術作品)_事実に対する正確な記憶システム_の一般的な現象を説明できないのか、という普通の議論をしている。したがって、認識上の深刻な空白を埋め尽くそうとするものではない、歴史性を失った限定・制約という事実の還元や再生不能な概念規定においては、その形成過程の再検証が必要なことも分かっている。 要するに、事実に基づく実践的交渉の場に私たち自身が踏み込まなければ、得られない情報は極めて多い。実践的関心を満たすために必要な知的構造体系についてのありふれた情報の不足から、実在する芸術概念にとって規則禁則にこだわるディレンマをかかえてしまった和声学は、一元論の限界によって引き起こされる事実誤認と歪曲の弊害に対して、また、現代的な概念のシステム融合を克服できない排他的な構造認識において、さらには人間が獲得した現実的な創出と調和を意図した実証的研究において、実践的事実に基づく理論と演習に相応しい改革を認識者たちに要請しているのである。そうすることは、近未来に対する備えでもある。 2012年 02月 27日
Desk:03 − 実践的課題 ◆ 歴史的証人 現実的な音楽体験を忘れるということは、脳裏に刻まれた数ある記憶の一つをなくしてしまうということではない。それは音楽と対話するための生まれながらにしてもっている質的な感覚の喪失であり、大事にしていたアクセサリーをどこかに置き忘れたのとは異なる。要するに、自分を形成している最も大切なものをなくしてしまうことなのである。そういう人間は、かつて音楽を感動のまなざしで見つめていた自分とはまったく違う人間になっているのに自分ではそれがわからない。だから大作曲家の和声は少しも耳に入らない。以前はそういうものに関心を寄せながら生きていたことを忘れてしまうと、人間は知らないうちに無神経にもなる。忘れたことがわからなくなると、あと先を考えようとしなくなる。 「歴史に学ぶ」とは名ばかりであったのだろうか? 当たりまえのことが当たりまえに判らないのは恐ろしい。あるものは他のあるものと異なるという価値観をないがしろにしてしまい、その虚無に蝕まれた理屈が教育にどんどん広がっているのではないだろうか? 他の人に無関心な人間は他の人に無関心であることに気がつかない。それは単に無関心ということではすまされないものだ。たとえば、和声を想像する人間が2人いれば、人間が2人いるのと同じである。だが、規則はひとつしかないから、人間が2人いてもひとつの見方しか教えることができない。単調で一元的な認識基準のせいで、完成されたルールなど実践的に不可能であるばかりか、考えられないくらい何もすることがなくなるだろう。その行き詰まりに対する問題意識もなく、演習においてはひたすら規則禁則に従うことを強要される。試験はマニアックなきまりごとに従っていればうまく通り抜けられる。ゆえに「それを知らないよりは、知っている方がまだましだ」の偏屈な考えが和声学を支配している。 私たちが求めるのは対話である。対話とは同調することではない。規則や禁則を判断することでもない。事象それぞれの相対的な違いを観察し、しかもそのコンテクストから和声に関わる概念的認識を進化させ、検証する人間の互いの考えを粘り強く突き合わせ調整することである。それこそが対話なのだ。要するに、和声学において対象全体を知る手段は歴史的証人としての現代の文化社会が認める芸術作品の考察と分析であろう。その学習効果の指標が和声学の定義概念となるものである。 それに反し、従来の和声学のいう目標基準の内容について問われたとき、「定められた禁則を不快な響きとして感受できる能力を備える必要がある」という前提に依存した定義は、部分的な問題だけを扱う規則主義者の執拗な思い込みにすぎないのではないだろうか? なぜなら、西洋音楽の歴史をひも解いてみても、そのような定義への共感を語る作曲家はひとりも存在しなかったからだ。また、指標とされた学習規則の論拠とは、バッハの音楽作品を聴いても分かるように、それをつくった人間の私的な経験則による認識基準に求められるものでしかないからである。そういった論理的言説を現代の学問として見るなら、象徴的概念の捉えどころのなさは、構造特性の事実を証明する定義として保持することもできないのである。その理論構成の内容は私たちを当惑させる。さらには、多くの先入観や観念論と同様、そうした諸概念は和声学において天から舞い降りてきた教義であるに相当する混乱を引き起こしている。もっとひどいことに、和声学の多くは、こういった事態が音楽に関わるコミュニケーションとしての音楽理論の根幹を脅かすだけでなく、現代的文化社会においては稀なものとなってしまったいまだに理論的解決のできていない旧態のルールが、本源的な芸術行為にまでさかのぼる創造活動のすべてを否定しかねない要素を含むことに気がついていないのである。 ◆ 感覚の受容性 かつて和声学講座は、年を追うごとに聴講率がよくないとされてきた。だが最近では事実に相応しい定義概念の再構成次第では学習者がついてくるという手ごたえをつかんだのではないだろうか。功罪のうち弊害ばかりが指摘されてきた理論教育ではあったが、若い次世代の視野の広い理論家たちにようやく合理的で洗練された手法が見えはじめている。これは、旧態の和声理論における過激な学習規則の破綻を示しているのか、それとも歴史的経緯を重視する音楽認識の普及効果なのか。このような状況判断は、おそらく現代における作品研究者とテキスト作成者の、事実に基づく観察をもって確かな認識方法とする哲学的立場をもった「人文主義的な考え方」からきているのであろう。中世以来の音楽理論研究者の解釈によれば、和声様式は各時代の音楽文化的な構造特性をまさに代表する形で縮約し象徴化したものにほかならない。私たちとしては事実を探るためにも、その理論を歴史的な視点をも備えた枠組みからもう一度考え直す必要がある。要するに現代的な認識によれば、和声学とは、響きと関わる私たちの生き方をいかに豊かにするかを考察する学問であって、その基本概念は人間的な感覚の受容性や寛容さによるものである。それは本質的に多元的で結論の開かれたものなのである。 現に、検証のない規則禁則の殻に閉じこもる和声学講座の視野の狭い問題意識が、想像力を秘めた受講者の意欲を奪っているのである。受講者たちは教室に入った途端、教える側の一方的な自負と自己弁護の入り交じった矮小な前提という壁に突き当たって行く手を閉ざされてしまうのだ。和声現象の象徴的な概念が自己の実質的内実を見失っていることによって、すべてのレヴェルにわたる体系的な論述を放棄してしまった断片化された定義は、また、概念化に関わる現代的な価値や美的体験の手段となる芸術作品の分析自体をアップデートできない言説は、文化的資源の育成という意味において問題が多い。こういった事実に対して論理的に矛盾する象徴化の問題は、教育的な立ち場からみて決して見逃すことができないものとなっている。そもそも規則禁則という前提条件はそれに基づいた演習を執行するだけで、旧態の理論における概念と実践の大きな矛盾を取り除くわけではない。そのような矛盾を理論的にしかも実践的に解決する手段とは、音楽分野に限らず、まさに文化社会が認める芸術作品の検証にほかならない。 それに加え逃げ場を失ったのか、演習において普段は「より協和的に」といって指導していながら、「連続5・8度は“協和しすぎて目立つ”ので禁則となる」の理由説明は稚拙である。いったい何をしているのであろうか? しかし、私たちが歴史に学ぶ定義概念がこのような認識の脆弱さを引きずらないことを自覚すること、そのことにこそ、和声学において論理的思考を変革する可能性が秘められているのである。理論家が古典和声のもつ構造特性として論述するのは、その対象となる個々の現象のあるがままの姿を尊重し、証拠となる実例や関係リストを作成した上で、未発見の新しい現象をも説明できる定義である。いうまでもなく、そこから引き出せる和声学的な理論構築の教訓を真摯に受け止めるのであれば、そういった批判にいらだつのは誤りであろう。 ともあれ、和声の事実を語ろうともせず、抑圧的なイデオロギーをもっともらしく見せてはいるが、その教程は観念論が誇張する閉鎖性によって考察や分析の領域も驚くほど範囲が狭い。そのために、選ばれなかった他の現実を隠ぺいし、しかも伝統的な和声法がもたらす両義性を排除してしまう。とりわけ認識基準となる象徴的概念に関してはそうである。そればかりか「規則禁則が分からない人間は和声が分かっていない」という「はぐらかし」は何もすることがないほど表面的である。もっとも、この何らかの超越性に論理の根拠をゆだねる言説は、和声に関するに根源的な音組織や歴史的な経緯は学ぶ必要もない枝葉末節的な知識であるとか、矛盾を引き起こしているのは受験制度や低学年の教科書が原因であるとして、いかに講座自体の役割が小さかったかを言いつのる和声学講座が多い。しかし、教育において検証のない規則化とは、拒絶であり、否定であり、独りよがりになってしまうことだ。それゆえ「考察・分析を放棄した規則化」はあくまで最後の手段なのである。 ◆ 人間を人間にする能力 教育において根源的で重要な教材は、人間という実践的存在とその歴史である。それらをつき合せることによってはじめて文化の多元性を謳歌できるモデルは構成される。そうした有効なモデルは、過去から現在に至るまで移り変わってきた過程や芸術的な意味をもって創られた作品のように実践的可能性を開いておくことができるのである。とはいえ、規則主義者のつくり出すルールによる学習指導が疑わしいのは、明証性のない普遍という概念一辺倒になってしまうからである。体系的に組織されるはずの理論が、規則禁則という限定・制約に一元化されてしまうために、私たちの日常的な現実体験に奉仕しているという従属関係は背後に退き、概念規定に関わる「本質的な構造認識」のことも、表出に関わる「相対的なメンタル・トレイニング」のことも、まったく判らなくなってしまうからである。 規則禁則にぶら下がっている人間は和声が分かったつもりになっているが、これこそ和声に関する思考の貧弱さを反映したものであった。その顕著な例をあげよう。たとえば、限定進行・禁則による排他的教育は、人間が外的環境に対してでなく、自らの実践的関心においてもルールによって拘束されていることを知ったからこそ、「規則禁則は演習のためにだけある」の言い訳を必要としたのである。だが、この閉鎖性と眩惑は「理論の信頼性を失う決定的な要因」となった。というのも、人間の表出という音楽行為の重要な考察と分析が、いまや規則禁則の強制的運命の論理ではなく、意識的選択に依拠する論理へと転化したからである。このようにして和声学は前提となる根本ルールについて検討し直し、理論構成はどのようにあればよいのかを吟味することが多くなったのである。よく考えてみれば、音楽文化の舞台において主要な役割を演じている芸術作品という実践的構造の中に、禁則など見えはしないのだ。それに対する思い込みの激しい大人たちが、非現実的な定義によって踊らされ見えると思っているだけである。 ![]() 20世紀の多くの理論家は、和声学を人間的な感覚の受容性や寛容さによるものと定義している。音楽大学の和声学講座を見ていると、とりわけ才能に恵まれた学生たちは風変わりなことをさせられている。たとえば、どのような事象も「源(みなもと)」があるのであるが、その説明もなく、実習において、いきなり「導音や第7音は限定進行音である」といって音の動きを封じられたり、指折り数えて「声部間進行_連続5度は禁則」あるいは「和音構成音_第3音重複は間違い」と指摘されたり、「きまりごと」に照らしてそれに合っているのか合っていないか、そのうえ、それは正しい和声のあり方なのか、正しくないのかを判断させられたりしている。専門のレッスンや個人的な楽曲演奏を通して得られるごく当たりまえの美的体験は無視され、どの和声法が誰によって想像され表出されたのかを学ぶことさえできないのが現状である。規則禁則というルールをもとに和声を定義することによって、受講者の多くは西洋古典和声における実際の響きの良し悪しも判断できなくなっている。このように、検証という考察や分析のない和声学講座からもたらされるものは混乱以外何もない。 こうしたことから、和声学の理論とは声楽的な4声体書法のことであって、想像とはルールに従うことであると思い込まされ、想うように和音をつくることも進めることもできない音大生が大量に生まれている。いま彼等は、音の動きを指定され限定されないと満足に演習もできない状況にある。学生の多くはものを言わない。疑おうとしない。教室にいるのは人と違うことはしてはいけないという考えにとらわれた人間ばかりである。考える世界はすべてが等質的になり、彼等は認識の発展・向上を回避しその等質性に順応している。等質性を抜け出しても何もよいことはない。「規則以外は例外、その逆も」という世界だ。それ以外もその逆も認めない等質性である。仲間に何かを伝えるにしても、その仲間も等質性の世界にいるのだから、響きの質的な差異を伝えるという動機がうまれにくい。それを感受する感覚もなくなってしまう。感覚がなければ響きなど判らないのも当然、しかも自分の体験を活かすこともできないのだから退屈であろう。 私たちには聴く力(様々な批判や解釈をする感受能力)がある。音楽体験もまた象徴的な事実の一つである以上、記憶のどこかに刻み込まれ学習においてよみがえる。つまり、過去の遺産を再生することで自分が自分になれる。そのようにして大人になるということは、相対的に諸現象が見えてくることであって、その世界を知っていく中で自分の思い入れを客観視する感覚を身につけることである。学ぶとはそういうことだ。つまり、私たちは音楽の大きな扉を開け、それを聴いた自分自身を体験するしかないのである。必要なのはさまざまな和声のあり方に触れ、「具体的な事実を実践的課題として理解する能力」である。どんなに追い求めても古典和声は逃げはしない。しかし、規則を追えば追うほど古典和声は逃げる。誰がつくったか分からない規則禁則を教えられても、おそらく、自分の感性がにわかに変ぼうすることはあり得ないだろう。そうと分かっていたらそんなまわり道はしなかったのに、と、あとでくやむ人間はまだ子供なのだ。 専攻のレッスンに限らない。和声学は、立ちあがる「自由な音の動き」に、あるいは「多様な和音の響き」に想いを託した表現者たちを考える理論的検証である。時代は変わったとしても、音楽の、和声の、その世界から人間がおりなす音楽行為を快く迎え入れる知的な学問的習慣が理論の重要性をつなぎ留める。現象の認識において一元化できないもの、そして規則化できないものとは、人間が人間であるために欠かすことのできない、つまり人間という「実践的存在」を「歴史を創造していく存在」にする能力である。 2012年 02月 27日
Desk:04 - 形成基盤の違い ◆ 何が科学的なのか? 和声学における定義とは、一部には歴史的概念化の産物である。このことを認める限り、定義の出発点となる概念とは経験的に現存する文化的な概念そのものである。したがって伝統的な音楽文化のもつ和声についての概念を実際に確立できるかどうかは重要な問題であり、理論の学問的な価値を示す核心部分である。ことの真偽は古典である芸術作品に直に訊ねてみなければ判らない。もしそれが不可能であるなら開かれた象徴化は成り立たないことになる。しかし、驚くことに、我が国の和声学の理論と演習は、概念抽出のための枠組設定の表明として大作曲家の名を挙げてはいるが、その作品を考察することは本来の意味ではないといっている。とすれば、この理論はいったい何について論じようとしているのか? そんなことでは次世代の研究を支援し、そのステップとなるような理論とはならないのである。 すなわち、そうした古典和声の本来的実体を放棄する構造認識によって、私たちそれぞれがそうと信じている歴史的表現者の存在、つまりは人間的思惟の移り変わりについて説明することは到底できないだろう。そうなれば概念とその規定は現実と完全に合致しなくなる。もちろん和声学においても、私たち自身が知らず知らずのうちに規則主義者の打ち立てたゲームプランに設定されたルールによって、実際に機能している和声法が制限されているとするなら、理論の現実性と効用性とを確保するためには、歴史上の実践的存在から得られる、和音と音楽的な脈絡の関係において果たしている具体的な構造システムについての検証と実例集めが不可欠なのだ。なぜなら、問題はまさに作曲家がどのような和音を手にして、その和音を具体的にどのように用いているかにあるからである。 ところで、音楽的に自由かつ歴史的な諸様式の創出活動と呼ばれている実践の本質をなすものとは何か? 和声学の理論と演習は事実によって証明する認識方法とその還元を曖昧にして成り立つのであろうか? 読者諸君はおそらく、実践的事実がもつ多元的な構造性を一義的な規則禁則と思い込んでしまった反時代的な概念規定が、いまなお教育現場に浮遊していることは百も承知であろう。それをプライベートな理論信仰の告白や趣味的解釈の一選択肢として扱うのであれば、問題は起こらない。しかし、こういった時代的反省を余儀なくされている認識と概念が、音楽大学大学院_博士・修士課程の終了論文という公的な教育にまで及ぶとしたら、環境は劣悪な寄木細工と酷評されても無理はない。 学部における教程はどうであろうか。ともかく、事実の論述に還元できる現実的に理解可能な基本的基準を確保するためには、歴史的事実に関する代表的あるいは全体的な古典作品について、概念の形成過程におけるさまざまな抽象を行わないで済ませるわけにはいかないのである。しかし、ここでも和声構造の象徴化においては解釈や読解の対象となる芸術作品の考察と分析による実証性は廃棄されており、そこには特殊な正誤判断が第一の定義となる認識基準が投げ出されている。だが、演習という実践的な現実をルールの遵守と思わせるこうした論理は、検証を怠る私的な経験則にとらわれた概念規定に起因する錯覚である。そうであっても、他者との共感共鳴ができなくなった音楽的コミュニケイションの世界に自閉する和声学は、旧態の理論が抱える危機意識を踏まえることもなく、むしろ、規則主義的言説にとって都合のよいルールを連呼しながら、その象徴的概念を事実とは相反する限定・制約に規範化する方向に向かっているのである。この道筋に沿って理論を考えるならば、そこに展開される定義概念の基軸となる分析状況は、事実の観察に基づく現象間の原理を洞察するに際して、研究対象とする様式特性レヴェルを明確にしようとしたものではなく、いまだに前時代的な認識論に拘束され続けているということになる。個々の西洋音楽文化が歴史上に創出したさまざまな事実を概念にまとめあげて定義するのは、ほかならぬ理論家たちである。西洋の音楽理論は広い領域と永い歴史をもつ。しかも、音楽理論という象徴的概念は西洋文化の内部においてさえけして音楽の分野だけに限られた理論であるわけではない。もし理論を正面から眺めてみるなら、我が国のその歴史はあまりにも短すぎる。大仰に結論を急ぐこともなかろう? また「まじない」「魔術」にかかってしまったように、その効験を信じる理論解説もそれほどまでに打算的になる必要もないのである。現代日本の音楽文化社会は未開な文化社会ではない。認識規準となる概念が事実を無視することによってのみ生きながらえているということは、学問的な地位喪失を意味している。 そのような結果については和声学講座担当者にも責任があったと断言できる。というのも、かつては芸術作品から得られるさまざまな概念と可能性を提供してきた和声学がいまやその能力を失っているからである。にもかかわらず、教壇に立つ大人でさえ唐突に「こういう画期的な理論は西洋には見当たらない」と言って胸を張るのを見ることがある。それは何か勘違いしているのである (マザー・システム/試験難民) 。 ◆ 見当たらない理由 確かなことは、芸術作品への肯定もできないな言説が示すように、日本における音楽理論の専門課程は現にそこにあるものをないもののように扱い、昔ながらの批判的精査から自己防衛に奔走してひたすら事実誤認のまま無邪気な夢をみているということになる。そもそも和声学の役割とは、存在するものの意義や価値を認め既存の理論の有効性を再検証し、批判を通じてより論理的な方向を見い出しそれを追求するよう促すことなのである。考察と分析は常に行っているという規則主義者は、和声構造の歴史と創出過程との関係をほんとうに象徴化しているのであろうか? それとも、自分が認める限られた対象の和声現象だけを論述しているのであろうか? 今となっては説明するまでもなかろう。 ![]() その音楽講習会では、日本の若者はすぐ見分けられるといわれる。みんな同じような、そっくりの4声体をつくるから、というのだ。個性がない、自己がない、と見られているわけで、とにもかくにも、学生が提出した作品分析と演習のレポートは、理論的な構造認識の歴史が浅い日本人が、なにやら思い込んでいる概念規定や19世紀的借用和音論による和声解釈のレヴェルから今もって脱皮できていない構造認識にすぎない、と揶揄されているのである。なかでも和音表記においては、和音の響きを知覚することのできる数字付低音法の音程をあらわす数字とは違って、転回指数による和音表記法はその指数からは直接的に響きのイメージを判断することができないため、西洋では普及しなかった理由である。西洋人は、なぜ数字付低音法あるいはそれを合体させた和音記号を教えないのかを疑問視している。しかし、先鋭的に、和音の響きに反応する歴史的な表記法を学ぶ代わりに、日本人は換算や変換を必要とする不便な和音表記法を、受動的に感覚の麻痺した中で、だらだらと受け入れているのである。我が国の和声学における和音形態の理論的および符号的な認識方法は自己満足にすぎなかった。世界は思った以上に先きに行っていた。いまや世界の理論とそれとの差は痛切。 問題は何も目をつぶっていさえすれば解決するようなものではない。私たちは西洋の音楽理論史の経緯を踏まえながら伝統的な和声音楽に耳を澄まし、そういった指摘には意味あるものが存在していることを感じとる必要がある。世界の和声についての理論的言説は、定義を目的とするだけでなく、とりわけ分析法についても教示しようとしている。したがって作品の分析基準やそれに伴う和音表記法について検討を加える上で、構造概念に関する本質的な論議を避けて通ることはできないのである。いずれにせよ、定義の過程においてその概念が和声の事実とは明らかに異なっているのに、和声学が「これこそが古典和声の理想的なモデルである」などとあおりたて、それにすがるような思いで学習者も必死で従い続けてきたことは否定できない。要するに、それは理論的基盤の脆弱さであり、けっして優越性ではない。しかも高等教育におけるマニアックな教程内容を考えると、それによって価値のある芸術作品と一緒にいることもできない眉をひそめるような和声学の実態は、この国のひとつの音楽教育的な問題を暗示しているといってよい。 それは西洋の和声理論に対してほんとうに誇れるものなのか? 規則禁則という概念規定はそもそもパラドックスではないのか? なんと日本では「大いに誇れる」という勇ましい声があちこちから聞こえてくる。こうした思いあがりは何に由来するのだろう。また「和声学は厳格な規則禁則があるから和声学なのだ」という論理的矛盾にさらされた論調、最近では「音楽に規則などない、は真実であるが、そこまでゆくと初心者のための教科書が成り立たなくなる」という笑うに笑えない発言も耳にする。........ ちょっと待ちなさい。もはやこのような混乱には耳を傾けるだけの価値はない。それは、殻を破る、その必要を感じながらも、それができない見世物化された人間の嘆かわしい言動であり、それは短慮から出た判断であることは一目瞭然である。あっさり言ってしまうと、厚かましいとはこのことを指す。 一歩外へ出れば、日本人の概念化した理論の方が優れているという自画自賛は、国際的にそうやすやすと通用しないのである。海外からの歴史上の理論情報にも疎く、世界はまだ遠いところにある。規則主義者は和声学の基本はルールであるとしたが、これでさえ例外ではなく、多くの学問的批判にさらされるほかはない。きわめてはっきりしているように、西洋音楽の和声様式に関わる理論構成において、既存の芸術的伝統文化の中に存在する様々な音楽作品や様式との相互の関係性が、古典和声の原理的構造性の豊かな源であることは否定することができないのは明らかであるからだ。しかし、そういった民族的な特性や文化的な常識も理解しようとしない畏縮した見解からは、西洋人は知的構想の劣った人間に見えるのであろう。 どのような民族の文化にしろ、古い世代が新しい世代に伝えていくシステムを備えている。それはすばらしいことだ。音楽文化の歴史と伝統的に継承された時代様式を捉え伝えていくということに、それは深く関わっている。それなら私たちはどうなのか。たとえ、東のはずれに住む日本人であろうと、現代においては世界でもっとも古くから存在した音楽文化の一つに属しているはずではないか。ひとつの文化は、個々の創造者が多様なあり方を試行錯誤した末に獲得したものであり、少なくとも問題解決の発見を可能にしてくれる存在である。人間の感覚と想像力に圧倒的な力でもって影響を与える現実体験と論理的言説との間に、これ以上の概念化の方法は見出すことはできないだろう。どの時代の和声構造にも、18世紀の古典派の和声構造においてさえも存在した実践的なオープンシステムについて、しかも、その歴史的な経緯について言及しようとしない志向や閉鎖性は許されるのか? このように、いわば無関心にさらされているものについて、何をもって対象との実践的交渉を期待しようというのであろうか? そうしたことから、芸術作品に肯定され表出されてきた多くの事象を、例外あるいは不作法なこととして禁則にしてしまう理論など、現代において世界中どこを探しても見当たらないのである。 ◆ 歴史は芸術を定義するための容器 さて、和声に関する理論構築において能力不足はどちらだろうか? 私たちはつぎのような結論を引き出すことができる。西洋人にとって古典和声とは、 ![]() 上記のような見解はさまざまな理論書に見られる。音楽理論史はそれらを詳細に物語っている。名著を世に送りだした西洋の理論家にしてみれば、現実を実証性のない規則禁則によって虚構化する理論構築は芸術概念にとって有効ではなく、多くの場合、それ自体がさらなる誤解を呼ぶものでしかないことを先人たちの知見を知ることよって分かるから、つくろうとしなかったのである。和声の理論とは和声音楽の歴史を構成するさまざまな実践を象徴化したものであった。とすれば、和声とは本質的に伝統もしくは一つの複合的な実践であり歴史的に定義されるものである。たとえば、現代社会に生きる人々が、J.S. バッハのコラールやベートーヴェンの交響曲の和声の世界を聴いてその創造性と革新性に感銘を受けているとするなら、事実と矛盾するルールを理論構成の前提として掲げるようなことはもはやできない相談であったろう。また、多くの演奏者たちもたしかにそれを自分たちの表現能力を最大限に引き出してくれる傑作だとしているが、それが傑作である理由は、規則主義的理論家の主張する理論の立場からは説明できないものであろう。もし、そんな誤ったフォーマットが生んだ和声学を強行すればそれこそ反歴史的・反文化的・反教育的な態度になってしまう。 さらにまた、フランス人やドイツ人は日本の規則主義者が考案したような和音表記をなぜ考えだすことができなかったのだろうか? もちろん、彼等に知的能力がなくてつくれなかったのではない。他人事ではない自分達の音楽文化の世界観において、そういった表記法による認識根拠の妥当性を疑問視したからである。理論構築構造において思慮深い前述した現代フランスの理論家_E.コステールの論述「Mort ou Transfigurations de L'Harmonie_和声の変貌/小宮徳文訳」が示すように、長・短調偏重による「D 諸和音借用という概念化への依存と乱用」を極力抑制しようとしたのである。古典和声の概念定義において、現実的ではない行き過ぎた2次・3次的な和音転義を必要とするような日本的な和音表記は、全く意味のない和音解釈であった。なぜなら、R.ヴァーグナーがそれを批判したように、西洋の研究者にとっては頭だけの借用和音の転義解釈を科学的に確認するすべがなかったからである。しかも、そこからは、音楽のもつ歴史的な様式と自分たちの「文化的コンテクスト」の広範な検証ができないことを把握していたからである。要するに、論証不可能な分析状況と概念化による定義は、インターナショナルな概念規定といえるものではなく、バロック・古典派およびロマン派の和声構造を限定的な長短両調と断片的な概念という視点から説明しようとしただけの、他性には全く耳を貸さず、寝たきりのアカデミズムを決め込み、事実に基づく実証的研究から逃避するローカルスタンダードにすぎない。 当然、音楽理論史と芸術作品の布置関係を十分な正確さをもってシミュレイトが可能な文化社会において、このような観念主義が強調する私たちが経験することのできない架空の定義概念は、どのような時代にも学問的な知識体系として容認されることはなかった。音楽学者P.H.ラング、O.ストランク、D.J. グラウトの音楽理論史に関する言説、理論家 J.J.ルソーの近代音楽論、コステールの和声構造論、作曲家P.ブーレーズのO.メシアンから学んだ調性と旋法性などの所論が明らかにしているように、自分たちが創造してきた音楽の現実と和声理論の相互関係の歴史を眺望したとき、つまり伝統的な諸原理の生成過程を踏まえれば、そういう象徴化と和音表記による構造認識には限度があることを十分に理解していたからである。 歴史は芸術を定義するための「究極の容器」である。したがって、私たちの目の前に、もし学問的な立場から西洋の音楽芸術として定義することができるような和声に関わる実践的存在といったものがあるとするなら、その音楽文化をかたちづくる基本的な「形成基盤の違い」が絶えず横たわっていることを常に意識しておく必要がある。 2012年 02月 27日
Desk:05 − 実証的研究の蓄積 「 現代認識論の立場 」 ◆ もうすでに21世紀 和声学は、ルールでつくられた虚構の世界をかけまわる遊びではない。この学問には明証の一般的規定として明晰な概念化と言説をもって音楽理論の歴史を支え、芸術作品を介して数々の優れた実践的存在を認めそれを肯定するよう仕向ける力がある。しかも、実在する表出における多数の可能性を探ろうとする。それは音楽芸術の中に生き生きと存在している響きを「検証する場」である。とはいえ、最初はできるだけ説明的な言説であろうとする理論であっても、「一元的な概念」がいつしか意に反して、すでに決まっている「超越的な前提条件」として理論内部に固定化されてしまうことがある。部分における必要条件はときに最終的必要条件と同一視されるが、このような条件は現実体験の中での実践を離れれば何の音楽的価値ももたない。たとえば、古典和声の論述において「導音は限定進行音である」という事実誤認の概念をルールとするように、また属7の和音の第7音は2度下行しなけばならない」という多様性・変化性を排除した概念を、説明もなくいきなり前提とするように、それらを唯一価値あるものとして、また、それらを普遍性のあるものとして扱うことは和声学の全体的な象徴化のゆがみを助長するのである。だが、多くの楽曲に耳を傾けその和声現象を考察すれば、固定化された認識規準が多様な和声の本質から逸脱した概念によるものであることが容易に判る。このことは、理論家が学習効率を持ち上げているうちに実と虚の区別がつかなくなり、「和声の創出とはどのように実践したら可能になるのか?」を自らが決定しようとする誘惑に勝てなかったことを意味している。しかし、その感情を律するのが理論家本来のあり方であろう。 それを踏まえれば、音楽教育において和声学が検証もなしにルールは普遍であり正しいと言い立てる語りは、批判的な問いかけも創造的なひらめきもない。そればかりか、多様化した和声構造におけるすべての変化音・変化和音の概念を、長・短調による借用和音論だけに求めようとしたり、そうするあまり考えることをやめてしまう機械仕掛けのような観念的分析法といった弊害もある。また、かつて歴史が教えてくれた現代社会における理論情報の「生産」「収集」「解読」「交換」に対応できる「オープンシステム」を扱うこともできず、規則主義的志向に逃避せざるをえない旧態の理論や論理に固執する排他的な言説はもっと深刻である。 窓の外には何でもある。しかし、教室の中には希望がない。望みは失っていないが、どうしたらよいか迷って いる。音楽のひたむきで純粋な空気を吸収することもできず、実体のない先入観にとらわれいつも同じ視点を強 いられるとしたら、感情豊かに生きている自分がもったいない。なぜ響きを楽しむのではなく、人が人に押しつ けている規則禁則に苦しむのか。思案に暮れるが気を取り直して大人たちに問いかけてみる。大抵の場合、彼等 はお手上げと言わんばかりに肩をすくめるだけで、その表情からは自分達の力ではどうしようもないと諦めてい る様子がよく分かる。そればかりか、まわりが偏狭なルールで囲まれてしまった人間は、それがが現実体験と並 び立たないことにあまり意識がない。ほとんど皆無だろう。事実に対して無関心なのだ。 和声学はなぜこのような事態に陥ったのだろうか? 何よりも、歴史的実在の検証を基軸としてきた和声学の本来的質性とは異なる様相がそこには見える。実証的研究のグローバル化の中で、ローカル的な存在感と自信を標榜する規則主義者の姿勢と、一元的な論理的言説がもつ無批判な慣例優先策が深刻な影を落としているといってもよい。古典和声における認識をめぐって、事実との真剣な対話を受けつけようとしないかたくなさは、枠組みに対する曖昧さと対象に対する概念規定の混乱に留まらず、厳格に疑似和声をただなぞるだけの非現実的な教程という問題も引き起こしている。規則主義者からすれば、認識基準となる規則禁則という概念規定は古典和声音楽の確かな検証結果であり、他のいかなる定義概念も認められるものではないということなのだろう。しかも、それはバロック・古典派・ロマン派、そして印象派の和声様式においても基本的概念であるとして、再考はあり得ないという立場だ。とはいえ、もうすでに21世紀、今日の和声学における実証的研究が目指す対象の新しい視点と領域は多様化している。最近、限定進行音のルールを教える意味が分からない、といって、意欲喪失に悩む和声学が増えているのはまぎれもない事実。 ◆ 理論的な知識環境 日本的形態の機能理論の歴史とは「理論のための理論の物語」である。たとえ、それらの理論が規則主義的にいかに煩雑な発展を遂げていたにせよ、また何らかの確信をもって自らの道を進んでいたにせよ、それが音楽文化の世界においてどのような意味をもったのかという点に関しての「問題意識」はきわめて希薄であった。いうまでもなく、今日ではこういう理論はいとも簡単に疑問に付すことができる。なぜなら、そのことは結局、和声学の理論的言説を芸術作品から引き離してしまったことにあらわれ、人間の創造性と芸術とのつながりを拒絶し概念の内包的定義能力を衰退させるという結果に終わっているからである。一般的に熟知されている音楽表出の可能性を見過ごしてしまう理論構成は、理論領域における美的体験の多様なあり方を捨てて、共同化されない私的な言い訳けを自己満足の糧にして「規則化する裏街道」を歩んできた。これこそが人間の感性に対する考えの貧しさを反映したものである。 そういった理論と論理をただちに西洋音楽における構造の組織化に当てはめたとしても、必ずしも「構造化の原理」を明らかにしたことにはならない。たとえ、そのようにしたところで、枠組みの特定領域を恣意的に不明にする考えがもたらした概念規定を用いて、古典和声のある部分的な様式がもつ構造をそのまま「なぞり返す」だけの話であろう。当の西洋音楽における和声構造の概念化と一体どのような関係をもつというのであろうか? それは聴く耳を備え広く共有されていた理解の享受が生気のない「特殊な限定分析」へと追いやられ、一般的事実として認められる現象でさえ必然性もなく否定するようなものになっている。だからこそ、いまなお唯一の概念に拘泥する概念と認識は、人間の音楽行為という中立レヴェルがもっている「表出の実践的機能」を当然的に論じることができないのである。 私たちは和声を単なる個人的経験則である規則禁則とみなし、これを和声学という狭隘な視野に押し込んできた旧来の概念的方向と視点とを克服する必要がある。なぜなら、芸術作品の検証を美的体験とみることは、定義と実際との隔たりが引き起こす問題のすべてに妥当な答えを出すことができる積極的な文化的行為であるからだ。芸術作品の表出はまさに実際に機能している実践なのであって、その体験は単なる理論モデルの疑似体験ではない。それは明らかに私たちが体験している「芸術の、芸術作品の全体的なかたち」である。和声学が行う概念化を正当化する論拠として現代の和声学が持ち出すのは、それが理論構築にとって欠くことのできない鍵をにぎっている、という事実であった。換言すれば、そのような考察と分析の蓄積は、創造行為のコンテクストに含まれるさまざまな思惟動機やそれを取り巻く音素材を結びあわせたものであり、私たちは何かを感じ取ろうという目的をもって検証する以上、それによって芸術的な体験としての正統性を失うことはないのである。 いうまでもなく、そのコンテクスト_音楽作品_は、すべて演奏されるために、そして聴くためにつくられている。人間の聴覚に備わった普遍的な能力に導かれる多種多様な想像的体験を内在させ、それによって自らの普遍性を証明するのである。作品に自分自身を投影するとき演奏家を志す者であるなら、まず、「作品をどのような知識を踏まえて分析するのか」「構成要素を伝えるためには何を優先させるか」「欠かせないものは何か」、また「作品の主題とは何か」「様式上の特徴とは何か」、さらには「自分はどこに共感するのか」「どのように自分をまとめるか」を考え、それぞれが異なった音の世界を体験するだろう。演奏者が自分自身を一人の人格として満たしていくためには「身体をいかに動かし、いかに身体自身を経験して自分の演奏をどのように組み立てていけばよいのか」という問題であるからだ。そのすべてが解決することはなくても、とぼしい説得力しかないとしても、そうした知的活動の試行錯誤がひとつの支えとなる音楽理論領域に向けられるのは当然である。 考察と分析という体験の蓄積は、学習者の楽曲の演奏や感受に必ず反映する。なぜなら、演奏、そして感受というものは楽曲をとらえる理論的な知識環境によって変わってくるからである。このことは、現実体験こそ芸術の究極の問題であることを思い起こさせる。 ◆ アプリオリ 象徴的概念は多くの実作品から選びとられてこそ理論は輝きを増す。理論構築者が事実の考察に基づく単純なコメントにおいて「この現象はこんなにも不自然である」「基本原理の対象にならないほど不快な響きである」「古典ではあり得ない声部進行」と、むき出しの私的経験則をルール化していては学ぶ者は人間の洗練された判断基準を現実に体験することができない。したがって、そうした一面的な概念規定しか学んでいない人間はそれだけ基本知識に関わる学習プロセスを間違えてしまう可能性が高まる。 規則主義者は、なぜこの世界の事実を知ろうとしないのだろうか。ひとつの音・ひとつの和音がこんなにも多くの動きが可能であることを、どのような理由から提供できなくなってしまうのだろうか。そういう経験的世界について述べている言明や法則などの間にある関係に妥当性はあるのだろうか。要するに、人間の聴感覚に備わる普遍的な能力を理解していても、また、現代における新しい分析データの情報はもっていても自分のこととして捉えていないのである。この非合理の極みは、規則禁則という概念規定を基本的な認識基準にすることで、いかにしてごく普通の聴感覚をもった人間の音楽性を向上させることができるのだろう。つまりは、芸術家が表出したどのような独創性につながるのかを知るための道具となり得るのか、また、歴史において作曲家たちが特殊な唯一性の概念に帰することなく、多くの概念を実践していった事実を判断することは可能なのか、という他者の視点がないがしろにされていることを指摘しておこう。 音や和音の進行に関わる概念規定においても、ルールによって制約されるのが古典和声学であるとして、それを解析もなく是認していたら、音楽の一般常識をはずれ私たちの日常的な現実体験と一致しない概念規定となってしまう。価値ある芸術作品に展開する多くの現象は、芸術家から私たちに与えられたものであり、作曲家の創造的な志向ではけしてあり得ない、その進行を「普通は」といって限定したり、現に存在するものを例外といって放置しあり得ないものとして否定する行為は決して許されるものではない。それは理論家の根本の原理にも反する。当然ではあるが、そうした非科学的な概念規定を個人が私的に認識するのと、それを音楽教育が芸術的概念の論理的言説として正当化するのと、あるいは公的な試験制度として規則禁則という形で人間の聴的感覚を封じ込めるのとはまったく違うことなのだ。 私たちにしてみれば、器用にルールを遵守するだけの演習は創造行為とはまったく異なるといって、使い分け ることができたとしても、そうやって使い分けた行動はすべて自分にかえってくるのである。不可分な自分の成 した行為であって、それは紛れもない自分自身の行為なのだ。人間の存在に分割ということはあり得ない。ある とするなら、分けも判らず首を縦に振っているだけの、結局は自己弁護のための「つじつま合わせ」をする人間 であって、果てはこれがその人間という顔をもつことはない。いつでもこのような人間の代わりは利く。 事実による自明の概念をいまだに象徴化できない理論の修得が和声学の目標とされたとき、現代の文化社会は そのような古典の知識環境を認めるのだろうか? 古典の創造者が示したように、本来的人間の感性は、断片的 な規則禁則の中などにはないのだから。 古来、理論家が論述する象徴概念は、伝統的に創造と再現や評論においてずっと重きをなしてきた。作曲家、演奏家、そして、それらを論説する歴史家はそれぞれがこの文脈の中で互いに影響しあっている。ボエティウスの音楽の定義が、幾世紀にもわたって音楽家を教示してきたこと、理論の危機意識についてのグラレアーヌスの人文主義的な考えが、次の時代の様式や創造性を正当化するのに力を貸したことを思い浮かべてみれば、人間は多様な経験と共存可能である。多元的な創造性と共存が可能なのである。これは人類学上の基本的な事実である。だが、規則主義者集団が見落としたこの旧態的脈絡は、音楽の享受に関わる和声学の批判的再構成にとって死活を制するといってよい重要性をもっている。芸術作品の和声現象に対して、これを単に低音5度進行による属音・属和音機能とその類型化のみに集中した構造認識、実践的存在を唯一性の概念としてしか見ることができないような「高度な和声技法においては」そして「揺れ」などという定義、あるいは検証を飛び越え一方的にその良否を決めてしまう正誤判断、それを単にコピーしただけの私たちの知性を動かすことができないマンネリム化した基本的基準、この観点こそが旧態理論の病理現象の根源に位置するである。このアプリオリに積極的に加担していたという点で、現代の社会的存在において、また文化的・教育的意識において、理論および論理を含むすべての排他的志向は責任を問われているのである。 日本型の理論は、和声現象に対して一元的にしか関連せず、さらに、あらかじめ加工された疑似和声を受け入れることによってこれを享受することに没頭するだけである。考察と分析の対象が疑似である限り、古代ギリシャの哲学者が理解していたように、「音楽の享受とは、音楽が知的な活動に連動し本質的に想像活動と切り離せないものである。したがって、それは音楽につねに反応する努力をしていなければ退屈なものとなる」のである。 ◆ 統一性と連続性 機能理論はその歴史を否定する規則主義者を容認しないだろう。日本的機能理論は、西洋のそれとを比較してみると、「人間の存在・思惟・実践」に関わる論述は未展開に終わっている。「分析のデータ」や「実証的研究の蓄積」を有効に利用できない理論である。というのも、その機能理論が論述する定義概念とは、ほとんどが規則主義者個人の自己テーマ的な先入観、モノクロ化された借用和音論、そして超越論的な規則禁則を指しているにすぎない。それゆえ、理論家は対象の概念的な規定において「実証的な情報の伝達」は必要ない、といっている。実習においても、実践的存在のダイナミックな側面をなす表出法はもっぱらルール問題にかかわるだけで、いまなお現実の「芸術作品」が指し示す「実践的課題」にかかわることはない。ところがどうしたわけか、現代の情報社会のすばらしさにもかかわらず、これらの「観点」は我が国の和声各論・総合和声論の理論構成においてまったく欠落している。なぜなら、古典和声の概念的方向とその適用が一元的規則禁則によって独占されてしまうからである。これは、対象という多様なアイデンティティに対する過度な単純化による理論と論理ではないのだろうか? しかし和声学の命題はまだ死滅したわけではない。現代の実証的研究において、音楽文化論や音楽理論、統計的手法の発達などは、音楽創造の領域は典型的なシステム統合の分野であるとして新しい問題を提起し、それに伴って理論構成基盤には新しいファクターと素材を提供している。その概念規定においては、たとえば、西洋バロック・古典派時代の芸術作品は様々な象徴的機能性を生み出し、時代的・文化的共同製作という様相を呈していると定義している。これはとりわけ18世紀バロック音楽について観察されるが、現在、そうした傾向が古典派・ロマン派和声様式においても見いだされる現象であることは、以前から対象の実証的研究によって理論史の定説になっている。そういった概念形成と再生作用こそが「理論の本質」なのである。 ![]() 言い換えればこういうことだ。旧態の機能理論では、もう私たちの周囲の対象について一般的なもの、共通なもの、それに対してノーマルな説明がきないのである。芸術作品の実践を対象とする事実の隠ぺい_例外視・排除・否定_からもたらされた「機能概念の崩壊」を理由にしてである。和声学において論述論される現象の「統一性と連続性」は、19世紀的機能理論によって構造化された限定的現象との固定的な概念規定によって確保されるものではなく、むしろ、それは歴史的に形を変え変容を遂げていく中での連続性によって保証され、複数理論の概念と連携する関係にある。 現代の情報社会においては、研究者が発信・受信する情報の量はかつてない比率で増大し、このことは規則主義者が思考の概念的方向として依存してきた認識基準を弱体化させた。古い先験的な志向による認識と概念は、時代と共に多様な目的地を目指して常に高次化し進化していく理論情報に対応することができず、和声学の基本的基準として機能し得なくなっている。こうした行きづまりが、認識根拠とその過程を脅かし、限定・不可・例外を前提にする唯一性の概念規定は現実性・効用性がなくなったという非難を生じさせることになった。それは和声学という学問の終わりではない。事実に基づく検証を部分的考察や人任せにしている規則禁則を、また歴史に関わる常識的で一般的な基礎概念を否定する考えを、根源的知識体系を形成するための認識方法とした理論構成の失敗による終わりにすぎない。 2012年 02月 27日
Desk:06 − 属音・属和音機能 ◆ 現実性と有効性 和声学において、聴く環境を失い、現実を体験する前提のない理論は未知なるものに至ることはない。答えは歴史の中にある。しかし、和声学においてその障害となっているのが、実質的な検証を怠り、受け売りの定義をひけらかす規則禁則である。そういった制約を克服しようと呼び掛けているのではなく、制約を維持しようと呼び掛けている理論である。理論の衰退はこの奇異な閉鎖性から始まる。現実よりもルールが前提であるという論理は、ただの口実だったのだ。それを信じて疑わない人間にとって妥当であるかも知れない論理も、作曲家にとっては「まやかし」にすぎない。和声の世界の移り変わりを顧みるあたりまえのことが分からなくなり、荒廃していく和声学に2種類のおろかさが見えてくる。 _第1のおろかさは、規則主義者が、観念的な認識基準を野放図に振りかざすため、構造の実際的存在の証明となる歴史的遺産のすべてを失ってしまったおろかさである。_理論構築における象徴的概念は優れた芸術概念が対象になる。その言説において、形骸化した定義概念だけが対象になると、歴史と文化の象徴である古典は必要とされなくなる。だから、旧態の和声学にはもっぱら規則と禁則によって、なすがままに支配された疑似的はサンプルは存在しても、象徴化において不可避の前提とされる人間能力の多元性を反映した実践的事実は存在しないのだ。 _第2のおろかさは、和声学が、真に実践的な作曲家や演奏家のように感覚が大切と考えなくなったおろかさである。つまり、現実体験の感覚を失った人間に、音楽はもう何もすることができない。音楽はその人間に現実体験の感覚が残っている間だけ有効なのである。 これらはどちらも、体験の記憶までなくして和声学の意味がわからなくなってしまうおろかさである。そればかりではない。私たちの理論的な想像力が、すでに歴史上の文化的実践によって確立されているのが常であるとしても、それが強制された規則禁則への順応や繰り返しに限定されることはないのである。だから、実際に機能している和声法を互いに関係づけ象徴的機能システムとして融合させる必要があるのだ。和声学の理論内に設けられた実践が、そうした問題を提起し進展の余地がある限り理論はなくてはならないものとなる。現代における和声音楽に対する考察の質の変化は、固定化された分析規準に跳ね返って概念を明確に与える定義にその根本的な転換を求めている。というのも、グレゴリアン・チヤントをはじめとする単旋律(プレイン・ソング)、同じ音程や和音形態が連続する平行和声(オルガヌム、ジメル、フォーブルドン)、音程和声(インタ−ヴァル・ハーモニー)、旋法和声(モードゥル・ハーモニー)、そして古典派和声など、その歴史の中に、超越的思考によってつくられた規則禁則の概念を保証する妥当性と合理性を探ることはできないからだ。 ◆ 直接的なコンポーネント 20世紀後半、現代フランスの音楽理論家として活躍したE.コステールは、音楽芸術における古典に関わる構造領域を放置してきたという点で、従来の和声理論には演繹系の「倍音共鳴論の深刻な欠陥」があったと指摘している。とくに学校和声の制約の多くの矛盾については、はっきりとこう述べている。「学校で習うやり方はそもそも総て紋切り型であり、真の創造者ならそれを変えることが出来るものではある。ところでここで示されていることは、倍音共鳴が他の如何なる音楽の母型よりも侵略的であり、専制的であるということなのだ。音楽を倍音共鳴に基づいて全面的に規定することは、物置のようになんでも入れることのできる同じ和音進行によって音楽を決定的に画一化してしまうことであり、印象派ドビュッシーが嘲笑したこの“スープ”をいつまでも味わい続けていることなのである。あるいはまた、属音機能を持った音集合によりどうしても縦割りになってしまう区画の中に、和声を終身禁固として閉じ込めてしまうことでもあるのだ」(和声の変貌_小宮徳文 訳 )。 たしかに、これまでのリーマンが提唱した機能理論は、機能性の中心問題をドミナント諸和音だけに依拠してきた構造論理であり、文化社会という音楽の場で営まれているその創出全体については積極的に論じることはなかった。しかし機能性の考察においては、ドミナント諸和音による構造だけでなく、歴史的な古典作品における和声に関わる現象はそれ以前の伝統的な構造分析が必要なのである。なぜなら、その古典を含む概念全体は、現代においても単なる観念論に関わる一元的な領域ではなく、文化や教育にとって、ジャンルを問わず、歴史的に芸術全体に関わる多元的な領域であったからだ。とはいえ、多様性の区分は、常に人間の文化が意味する時代性によって定義されたものであるが、そのことは同じ時代においてもその区分がいつも同じであるとは限らない。しかも種々の区分の間には、絶対的な優劣の差があるわけではなく、ただ、比較上の差異を認めるのみとなる。音楽が人間の文化活動によって音楽となるように、原理・法則をはじめ、その組み合わせによる和声法もまた、人間の文化的創造によって両極的多様性を備えた構造となるである。 日本式の機能理論が芸術作品に展開される多様性を極端に縮減し、それを和声学の不可避の前提と見せかけてきた排他性と事実隠ぺいの問題は、学ぶ側の不信を招いただけでなく、文化的な資源供給を支えてきた教育者の音楽に対する環境意識にも傷をつけたのである。しかし、私たち人間のさまざまな美的感覚を理解するためにはこのまま放置してしまうわけにはいかない。和声学に何が起きているのか? 新しい理論と論理における課題は、規則禁則という旧態的な概念規定を部分更新するのではなく、古典に関わる和声の原理という資源供給にとって有効な理論構成をどう押し進めるかを含め、現代人が共有する音楽文化の社会環境に配慮した理論と演習のあり方を見直すことにおかれている。 ひとつの例を挙げてみよう。たとえば、「属音・属和音機能」に対して各時代の作曲家たちはそれぞれの表出法で反応している。中世においては「低音旋律の2度上行」、ルネッサンス/「主に減3和音を属和音とする低音2度下行」「2重導音和音」、バロック前期/モンテヴェルディは「旋法性に依拠する段落法の多様化」、バロック後期/J.S. バッハは「主和音第2転回形を先行させる属7の和音」「導音進行の自由化」「複導音カデンツ」、古典派_モーツァルトにおいては「導音和音の増6度和音化」「Ⅱの和音の第1転回形やその7の和音を先行させる定型的段落・終止法」、またベートーヴェンは「属7の和音_第7音2度上行」「根音変化和音を用いた新種の導音カデンツ」「バロック的段落・終止和声のショートカット」、そしてロマン派_シューマンは「借用和音論の解釈の限界を克服しようとした新しい概念による変化和音」「9・11・13の属和音」、および「多−導音カデンツによる段落・終止法」という構造概念であることは言うまでもなかろう。このように人間の思惟・存在・実践とは、バロックや古典派様式において、目的実現のために構造発展のプロセスを伴うのが事実なのだ。あのモーツァルトやベートーヴェンでさえ独自の表出という新たな概念を立ち上げていたのである。しかも多くのライヴァルたちと同じように、自分の眼前に広がる自分に与えられたいくつもの可能性を信じていたであろう。したがって、この属和音の伝統的概念に対して個々の作曲家が行った解体と再生の歴史的経緯を把握することで、古典和声の実践的構造とは多様性を排除する画一的で特殊な実践ではないことが明らかに分かる。とすれば、和声的本質の唯一性を主張しようとするだけの理論のための理論で固められた規則論ではなく、実践的存在である作曲家が表出した伝統的な芸術作品から得られる「直接的なコンポーネント」は、事象の多様は多数の事象の解体と再生として論述され、私たちの将来的和声研究にとって死活を制するほどの重要な意味をもつものなのである。 この観点に立ってみると、芸術とは開かれた歴史的文化的実践であり、本来その領域が誇りとするのはポジティヴな革新性なのである。たとえ、私たちが一つの定義を見い出しその認識基準で現存の芸術作品を分析することができたとしても、他の作曲家の芸術的創造性がその制約内におさまるという保証は何もないのである。実践においてさまざまな方法を試みながら進化していく芸術家たち、彼等は恐れを知らぬパイオニアだ。しかも未知の世界を開け放つ道案内人である。歴史的な過去の遺産をふところに抱え縦横に躍動する。挫折しても、そこからさらに希望をリニューアルする知性と実行力、先例がないからと言ってひるむこともなく、つぎつぎと新しい文化を生みだす洗練されたセンスをもっている。そうであれば、そのあるがままをもっと肯定的に見ようではないか。 ◆ 広範な分析と検証 作曲家たちは自分の創造の世界に多くの秘密をもっている。ふだんはそのことを私たちに簡単に気がつかせることはない。ある作曲家が意外な発想や技法の持ち主であったり、なぜそうなのかを知ろうとしてもすぐには分からない世界がある。たしかに、まわりにある音楽はすべてが私たちの思いのおよぶものばかりではないのだ。グラレアーヌスが教えてくれたように、どんな現象の解釈においても個々の理論家はみな同じような考え方をしているわけではなく、音楽芸術の世界をまったく規則正しい時計仕掛けのようなものと考えているわけでもない。それを忘れていると、人々はすでに無効となっている制約にひたすら従うことは、また機能理論によって古典作品すべてを解釈することは少なからず理論の現実であり、そうすることは当然であると勘違いをしてしまう。これは群集心理にも似た奇妙な光景であって極めて憂慮する事態である。 日本の和声学は、創造性豊かな感性を育成することを目標にするが、その演習において実践させようとしている内容は自然な人間の感覚によるものではない。それは規則禁則に照らした正誤判断という「信号」によるものである。その生気を欠いた信号は学習効率をひたすら上げようとするあまり、人々の個性を無能にし、発想の努力を要する芸術作品のような和声景観とその発展的実践をともなう定義概念の論述も意図的に避けている。しかも「暗記もの」という代用品で間に合わせようとする前提が前提であり続けるために、人々を音楽の現実的な対象から引き離していかなる知的挑戦も望まない。それに対する積極的な反応も望まない。さらには音楽的努力も要求しない。つまり学習者は、本物思考によって得られる洗練された感覚体験を否定され続け、学習の本質的な満足も妨げ られやがて自分の聴覚に対して確信がもてなくなってしまう。明らかに規則禁則で固められたテキストは、古典 という文化的な資源を真正面から調べるようにはできていない。たとえば「限定進行音の規則を超えられない調 教」だけをくり返し受けていると、学習者は表現を工夫する余裕をもつことはできなくなる。それは何事も人任 せにする学習になりやすく、自分で考え成熟していく道筋をたどることはない。 しかし、自分が感銘を受けた作品を考察することで、些細なことでも自分で発見したことはいつまでも残るも のである。よく考えてみれば、学習規則を前提にして和声を学ぶということは考察を放棄して学ぶことになる。 その結果、事象の複数のあり方を修得しようとしなくなるのである。だから和声学においては、芸術性をきわめ た名曲を聴き経験的な実在に直接触れるという概念の形成過程は重要なのである。象徴的概念を明らかにするた めの手段すなわち広範な分析と検証である。もちろんそれはスーパーで買えるようなものではない。そのような 概念は学習者自身が習得しないなら、ふと気がついたときはもう動きがとれなくなってしまう。過去をなくした 人間、現実体験をなくした人間、自己防衛的な反応しかできない人間、それこそが根無し草なのである。 ルールに始まり属音・属和音機能に終わる一連のプロセスは、いわば規則主義者がとらわれる規則禁則という限定・制約の論述であり、根音5度進行のあらわれる領域において、規則禁則のための規則禁則としての構造モデルつまり疑似和声を正当化しようとした論述であった。このような流れを見ると理論は、規則主義的固定化の一途をたどってきたようである。しかし、「人間能力の可能性」が失われ、「人間的行為」そのものが破壊されたかに見える現代では、むしろ日本における和声学の使命は、人間の思惟・存在・実践に関わる新しいイメージをつかみ取ろうとするところにありはしないだろうか。観念に被われている事実に迫り、かつその思考活動が創造的であるためには、ルールそして属和音機能による認識基準にただ追従しているわけにはいかないからである。 2012年 02月 27日
Desk:07 − 機能理論の限界 「 新しい音楽観の要請 」 ◆ ひとくくりの暴力 現代フランスの哲学者J.デリダが直言するように、ひとくくりの暴力によって歴史的事実や認識根拠とその過程を隠し通せる時代ではない。もうそういう時代は過ぎたのである。和声の機能性とは何か? この命題は永いあいだ音楽理論を悩ませてきた。どのような民族音楽にも、どのような時代音楽にも、その歴史に刻まれた原理において独自の機能性が存在する。これまで数多くの機能理論が論じられてきたが、それらは、それぞれの対象とそれぞれの認識方法で固有の目的をもって検証されている。 西洋古典和声の世界において、たとえば借用和音論による解釈だけが変化和音の認識基準ではなく、また19世紀的な機能理論による理論だけが実証的研究が扱う基礎理論ではないのである。というのも、変化記号の変遷さえも分からず、変化記号の付いた音程・和音のすべては近親関係調から借用された和音であるとする考え、そのうえ限定・制約という概念規定に関わる思考過程の脆弱さは、まさに歴史的経緯とそこに展開された音楽的思索を究めなかったことにあり、そこから知識体系における致命的な認識上のブランクが生じているからだ。 古典和声の考察・分析を有効なものにするためには、和声学はその空白を克服する必要がある。理論構成における定義概念の役割とは、「対象となる構造特性はどのような考察に依拠するものなのか」「直接的な分析によって何を説明したいのか」「そうした過程のなかで隠蔽あるいは排除してきたものは何か」を見極めることである。和声法の歴史は紀元5世紀に始まる。理論書は、ラテン語による文献として、 ![]() がすでに存在する。これらは英訳され現代においても学ぶことの多い教本である。前章においても取り上げたように、およそ9世紀頃の文献「ムシカ・エンキリアディス/音楽教本/著者不詳」は、和声の起源となるオルガヌムについての実例を論述したものである。その注釈書「スコリア・エンキリアディス」は、対話形式で理論が展開され「シンフォニーとは何ですか」という弟子の冒頭質問から始まって、それに答える教師が弦楽器によって得られる伝統的音程論をひも解きながら、当時の教会音楽であったオルガヌムに実践された表出法の解析を試みていく当時としては最新の理論書である。 そこには完全8・5・4度音程とその複合型による実例が提示され、しかも実在した「14種の平行法」の論述内容は、分析と概念化のための和声の起源的な構造特性に焦点をあて「システム論的考察」を基盤とした歴史上最初の事実に基づいた実証的な和声理論である。しかも、この理論はグレコ・ローマン的な音楽理論を前進させた国際的な地位と規模を与えている。そのほか、「完全音程を含めた2声体音程連結」は9世紀に、「完全3和音による和声概念」はすでに13世紀に確立されているが、カノン「Sumer is icumen in /夏は来た」はその響きで彩られた作品である。また、15世紀には6の和音を連続させた「3声体フォーブルドン和声」がみられる。一方、和音の「基本形」と「転回形」という和音概念は18世紀中期ラモーによって追認されたが、15世紀のオケゲムやオブレヒトの作品には両形態による「導音カデンツ」の用例がある。当然それ以前には、カデンツの和音形態が転回形から基本形へと移行する歴史が存在する( 序章_和声の変遷_http://organum.exblog.jp/i50/ ) 。 ところで、18世紀以前の音楽は対位法様式であるという極端な判断は、楽語の語意解釈も分からない憶測から生じたものである。そういった言説は音楽荷対する一般的な認識基準を閉ざした人間のたわごとにすぎない。なぜなら、対位法は音楽の書法における方法論を指し示す名称であって、時代様式をひとくくりにする音楽用語ではないからだ。20世紀の対位法の理論家K.イエッペセン、和声の理論家R.F.ゴールドマンは歴史的における系統的発生的な観点から「パレストリーナの音楽は水平的な対位法的要素が出発点であったとしても、実は背後に隠された垂直的な和声的要素に従って生成されている」と論述している (Counterpoint / K.Jeppesen-対位法/柴田南雄 皆川達夫 共訳)。しかし、19世紀のある理論家は明らかにJ.S. バッハのフーガを和声的に分析することを拒否しているが、今日の音楽理論ではフーガを和声としてみるのは当たり前になっている。そのことは、「バッハの和声様式はその対位法の巧妙さに劣らない 」という音楽学者の確かな言説と作品分析からも分かるのである( History of Music /H.M.Miller-音楽史/ 村井範子 他共訳 )。 つまり、全音階法と半音階法のにもとづいた和声の構造概念はいつの時代にも存在したように、音楽理論において対位法にもとづいた時代とそうではない時代といった区分があるはずもなく、ポリフォニーとホモフォニーという両スタイルは、どのような時代においても表出範囲と頻度の差こそあれ、相対的・対照的な和声構成要素として常に組み合わされ創出されるのが音楽の一般的な構造状況なのである。 ◆ 近・現代における広義の知識論 音楽における垂直的(ホモフォ二ー)な構成様式は、西洋の古典派音楽に限らず、中世からバロック、そしてロマン派・印象派・現代のどの音楽にも単声(モノフォニー)、平行(パラフォニー)、水平的(ポリフォニー)な構成様式と共に存在し、それは対照的な和声構成法のもとでどれも欠かすことのできない関係にある。古く昔にさかのぼれば、通称「ロータ・ジメル」、そして「フォーブルドン和声」は、「3度音程」や「3度音程と4度音程を積み重ねた6の和音」で構成されている。歴史的な音楽理論の文献上では、12世紀、13世紀、14世紀の和声をはじめ、15世紀の作曲家デュファイ、ダンスタブル、16世紀のH.イサーク、G.ガブリエリ、C.セルミジはホモフォニックなスタイルで作曲している。 歴史を顧みても、西洋音楽の和声構造のすべては、H.リーマン、S.クレールが唱える長・短調偏重の調概念に 即して成立した時期は一度もないのだ。私たち日本人にはとりわけ興味のある、バロック・古典派、ロマン派和 声音楽の構造特性でさえそうである。とくにJ.S.バッハやショパンの作品における根源的な旋法性を志向してい る特有な表出法を無視することはできないだろう。その構造をめぐる様相はそれほど長・短両調に単調化された ものではない。それらは伝統的で多義的である。下記の書籍から、その概要が判る。 ![]() 広義の知識論としての和声論の歴史は、ヤーダスゾーン、クルト、ルイス&トゥイレ、 シェーリング、コステール、パーシケッティ、ピストンの理論など、多くの旋律・音程・和音論に依存している。そればかりか、世界中には和声音楽の生成基盤となった起源的な旋法和声の理論体系、20世紀における複調・多調・混合和声、さらにはピーター・ワグナーによる7世紀頃の平行オルガヌム 、P.A. ショルズやM. ラヴィナの西欧地域以外に存在する多声音楽、それによって明らかにされた黒海周辺の古代ギリシャ、トルコ、イスラエル、パレスチナを含む中近東や南北アフリカなど世界各国に散在するオルガヌム、「3 和音のルーツ」をヨーロッパ大陸ではなくドーバー海峡を越えたイギリスに探し求めた歴史的な解明、サン・マルシャル楽派の3度音程並進行を加えた初期多声音楽、あるいはもっと時代をさかのぼり紀元前の音楽理論の解読による音楽再現などの研究に没頭し、地平線の遥か彼方を見つめる理論家もいて大変賑やかである(Greek scolion)。 ◆ 創造の世界に適合する表出 限定・制約によって、同じような方法、制約によって同じような現象ばかりを集めた理論は、事実をゆがめ脆くなってしまう。たとえ、19世紀的機能理論の出現が理論の近代的発展に依拠していることを認めたとしても、このことは、古典和声の構造すべてが機能理論を基準に認識分類されることと決して結びつかないからである。もし普遍的なものであるかのように論述するなら、それは起源論的な誤謬を冒すことになるだろう。とりわけ、理論と実践とがその発展以来いかに多様であったかを考えるならば、なおさらである。創出の現場である芸術作品を検証すれば、そこには規則や禁則では正誤判断ができない「和声のドラマ」が展開しているのが分かる。この世界には人間の創造性とアクティヴな感性とによって、多くの構造概念が競合し機能している。それは音楽芸術の時代様式そのものにまで影響を与えるものであり、それゆえ、さまざまな事象が集合する多様性の象徴化こそが理論発展の原動力である。その容認は、理論的言説が健全に発展するためのキーワードにほかならない。 困ったことに「誤認され放置された価値判断の基準」や「分かりやすさを求める安易で幼児的な論理」という ものはとかく絶対化されがちである。たとえば、「自分の理論が真であるなら、それ以外の理論が存在するいわ れなぞどこにあろうか」「ルールは美しさの普遍的なものである」のような錯覚に陥った規則主義者の言説に多 い。それと同じようなH.リーマンの言説_「私には将来自分の理論体系が他の理論体系にとって代わられるなぞ とはどうしても考えられない。私の諸著作が最終的な見解を与えたものと確信している次第である」は予言的な 超越的思弁であるとして、こうした見解を理論家 J.= ジャック・ナティエは著書「音楽記号学/足立美比古 訳」 の中でその理論と言説を疑問視して次のように述べている。「なるほど、彼ではなく今日の理論家や作曲家がこ んな発言をするとしたら気狂い扱いされることは請け合いである」。 学問の一般的な常識として和声学における序論では、19世紀的機能理論は、定義概念の論理的変化発展において言葉で述べられたひとつの和声に関する解釈論であるという説明をしているはずだ。なぜなら、J.S. バッハ、ヘンデル、ハイドン、ベートーヴェンと同様に、18世紀古典派時代の作曲家モーツァルトが100年後の音楽理論_リーマンの機能理論を知り尽くし、それを自分の作品に反映させながら創作活動をしていたとするわけにはいかないからだ。このことは、過去に機能和声学を学んだ専門知識をもった人間であるなら、西洋和声の歴史という内容に触れ誰もが理解している定論であろう。 周知のように、規則禁則それ自体が規則主義者の考えた概念的イデオロギーに永いこと拘束され続け、それに 対して自称プロパーたちはものを言わず流されるままを決め込んできた。しかし、事象のシステム論的考察と実 例的定義を怠り、多種の本源的な音組織を長・短音階に、多様な調性構造を長・短調に2元化することで諸概念 を説明しようとした理論の限界は、私たち現代人にひとつの重要な結論を提示している。伝統芸術における象徴 的概念を学問的課程へと移行するには、パターン化された認識基準の働きかけだけでは、命題の解決を目指すそ の理論と実践は機能不全に陥る。そういった旧態理論の概念的方向は、同一の対象に対して様々な視点をとるこ ともなく、また多くの概念を分かちもって定義しながら実践を豊かにするのではなく、むしろ定義することによ って実態概念を唯一の概念に統制するのである。日本型の和声学に見られるように、理論と演習における和音表 記およびルールにまで至るものだ。 対象を本質的に概念規定することは、私たちに対する対象の関わり方を論述することである。したがって概念規定は実践的関心を満たすために事実の証明をもって行われるのである。たとえば、音階音_第7音の進行を画一化して特殊な概念をつくることもできるが、私たちがそのような概念をつくらないのは、それが古典和声に対する認識の発展には役に立たず不毛だからである。 和声学の目的は、歴史や対象の検証結果と直接対話ができる機会をつくること,そして物理的に古典和声の近くにいることである。特殊な唯一の概念を押しつける規定は、対象の断片化された概念の一つを全体的な概念として定義することであり、それが正しいといって芸術や芸術作品のあり方までをも定義する。つまり、規則禁則の規範に準じない概念は、例外・不可と見られるほかはなくなったのである。これでは、ただ現実とかけ離れた疑似和声の構図を規則禁則で強化しているにすぎない。あえていえば、事実と食い違う概念規定が一義的に繰り返し示されている限り、理論は対象を肯定的に象徴化できないフォーマットが生んだ方向づけに隷属させられたままなのである。とすれば、それに代わる検証から孤立した理論に対しての問題意識が、また概念の形成とそれを支援する知識体系が必要なのは言うまでもない。 理論構築のための土台となる概念の新たな確認は、認識基準の排他的支配をうち破り、私たちの音楽観を向上させるのに必要な力を与えてくれるだろう。古典和声の歴史的経緯の再検証は、規則主義的和声学において疎外されてきた相対的特質を洞察する基盤はもとより、事実に基づいた明確な認識方法と合理的な定義概念化への道筋を与えることができる。そればかりか、音楽理論に関わる研究体制を改善し、より開かれた対象との実践的交渉を志向する基本的基準とその諸構造を聴きとることが可能なバランス感覚、さらには創造の世界に適合する表出への緊密な統合へと向かわせるのである。
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